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October 2008

October 28, 2008

自己変革の三要素・・・・・・

全国行脚の旅を取り敢えず終えることが出来た・・・会計年度が、通常の会社と異なり11月30日である為、今期での出張は緊急の場合を除きこれで終了となり、これから溜まっている評価レポートを作成することになる・・・・

これまでは、日本の最北端の訪問地は妻の実家のある会津若松でしかなかったが、最北端は北海道の名寄まで記録を塗り替えた、北海道だけでも、このほかに札幌、旭川、留萌、そして、苫小牧まで訪問してきた・・・四国中国は全県制覇したが、後、訪問していないのは、南から、沖縄、鹿児島、宮崎、熊本、佐賀、秋田、岩手、そして、青森の八県のみが未だに訪問したことが無い・・・・

これで日本人であるといいえるだけの自信が持てた、しかし、来期は九州が抜けすぎなので全県制覇をしてみたい・・・・これから、一ヶ月をかけてレポートを作成する・・・・・

種々の地方の人たちとの種々の交流を通じて、色々と感じさせられ、自問自答を繰り返してきて、今、自分の頭に浮かんでくる人間の成長の為の三大要素は、もっと端的に言うと自己変革のための三大要素は、①自己変革に立ち向かう覚悟の醸成力、②自己変革を成し遂げる為の心のエネルギー管理と維持能力、③人間であるゆえんである知的思考能力・・・・この三つである・・・・

この三つは全てお互いに相互作用の関係で結ばれており、どれ一つとしてあるレベルを下回ってしまうと全てが駄目になる・・・

この三つの関係でやはり一番大事なのが、覚悟の醸成であると捉えている、つまり、多くの人が自己変革をしたいと思うのであるが、自己変革とは、苦行を伴うがゆえに、願望としての“したい=欲求”がいくら強くても、苦行に直面すると萎えてしまい、つまり、心のエネルギー不足の状態に陥り、前に進むことが出来ないばかりか、諦めてしまう・・・

もし、この時点で知的思考能力が十分であれば、この様な苦行に面することは論理的には当然のことであり、自分が、自分自身でこのままでも良いと判断をするのか、しないのかを知的思考力を屈指して判断をするが、人間の構造的な問題を、また、その人間が構成する社会の構造的な問題を確り理解が出来れば、再度、覚悟の強化が出来るのである・・・・

つまり、真の知的思考力を、ほとんどの人が出来ていない・・・・

つまり、実存する現実を現実としてどれだけ正しく認識できるかは、心のエネルギーの大きさに依存するのである、つまり、それまでの限られた知識や経験から自分の中に自動的に起動してしまう捉え方や価値観に、如何に縛られないようにするか・・・・

これがKozyの言わんとする自動脳のことであり、この自動脳に縛られないことで初めて現実が正しく見えてくる・・・・・この為には、心のエネルギー不足では、脳の持つ怠惰性に負けてしまう・・・・

Kozyが、皆さんにお勧めしている“3355”は、人間の構造的な問題の理解とその構造的な問題の呪縛からの開放策であり、この方策の実践を通じて、一番最初に深い理解をする必要があるのが、自己観察と周りの人達の観察を通じて人間の構造的な愚かさからくる、・・・・・・人間は自分の普段の言動を通じて、周りの人たちに植え付けた自分自身に対する社会的な認識に対して自分自身がその役割を演じていることなのである・・・・つまり、全て自業自得であり、まさに、因果応報なのである・・・・

そして、この自分自身に対する社会的認識への反発心が、自己変革への機動力になっている・・・・この理解が大事で必要なのである・・・・つまり、自己変革に立ち向かう覚悟とは、人の所為にはしないことなのである・・・また、周りの人の自分自身に対する認識の変化は、当然、すぐ変わるものではないことを理解して立ち向かっていくこと、これが覚悟であるとこを理解すべきなのである・・・・

もっとも愚かな人は、自分の偏った経験とそれに付随する感情により、自分の愚かさを認めることもなく妄想として、自分はこうなれるはずと思う人であり、当然、そこには正しい覚悟もなく、知的思考力もなく、当然頓挫してしまうだけなのである・・・・・・

個人的には英語の表現である“You are trying”という言葉を思い出す・・・この意味は、(自己変革を)試みている最中である=(結果が出ない状態であるが故に)苦しんでいる・・・つまり、試みは達成するまでは苦しい=苦行でしかない・・・・これが、現実であり、それが故に、このことを最初から理解していない人は、覚悟を本当にはしていないことでしかない・・・・

しかし、たとえ同じ事をしていても、この“TRY”ではなく“Challenge”する意識に切り替えると、挑戦という言葉になり、挑戦=覚悟と同じ意味になり、その挑戦の方向が自分にとって本当に正しければ、また、知的思考力を屈指して自分自身で本当に必要であると整理が出来ていれば、むしろ、ワクワク感が生まれるように脳はできているのである・・・

つまり、知的思考力が心のエネルギーの維持と増幅に貢献をして、あるべき覚悟を醸成してくれる側面もあるのである・・・・

もう一つ大事なこととして、“3355”を通じて、理解すべきことは、自己成長の度合いにより変化していくが、誰が一番自分を支えてくれているのか、また、誰を一番守りたいのかを知り、その人たちへ報いたいことを自分自身ではっきりさせ、その人たちの為に、そして、それが自分の為(自分が自分として存在できる為に)にもなることを理解して、そのために自分が如何変わりたいのかを考え知ることなのである・・・・

理由は簡単であり、人間の脳の持つ怠惰性の本質より、ただ自分の為だけという覚悟は、苦行に直面すると萎えてしまう・・・端的に言うと、自分で他の理由を見つけて逃げてしまう・・・・これでは覚悟にならないのである・・・つまり、利己主事による覚悟は弱いものであり、愛他主義による覚悟の方が強いのである・・・・

つまり、利己主義による覚悟は、集団社会での自分にとっての自分として変革でしかなく、集団社会に寄与が認められない限りは社会からの抵抗はより強く、また、変革への支援者は現れてこない。 一方、愛他主義による覚悟は、人間が集団の中でしか生きていけないが故に、集団社会からの支援が得られ、また、相手に寄与する自分自身の変革が自分の望む自分と一致することにより、一番おきな自己変革への心のエネルギーが得られるのである・・・・・

言葉だけで説明することは非常に難しいが、各三つの本質は次のように言いえるのではないだろうか・・・・

覚悟とは、・・・・・人間の構造的な問題から捉えると達成できないものへの挑戦・・・また、強い覚悟は、その目的達成に有益な脳内回路を活性化し、有害回路を不活性化する、良くも悪くも、だから、人間は多重人格者にもなれる。言い換えると、強い覚悟は、人間の無限の可能性の具現化へのスイッチになるのです・・・・・

この覚悟が無いと心のエネルギーの維持も増幅もできない、また、知的思考力も磨くことは出来ないもの・・・・・だから、一番大事なのです・・・・

心のエネルギーの維持・増幅とは、・・・・・如何に人間の持つ構造的な問題を深く理解して、現実との折り合いを付ける能力であり、そのためには、一方だけに偏らないで臨機応変にスイッチできる能力であり、これなくしては正しい覚悟は出来ない、また、正しく現実を捉えて知的思考をすることは出来ない・・・・

知的思考力とは、・・・・・曖昧性の習得により齎された人間の脳のみが持つ能力であり、それが故に人間は矛盾に満ちており、人間が構成する人間社会も曖昧性と矛盾に満ちている、この人間社会は構成員である人間の成長度合いによりあるべき解決策な変化していくものであり、実践+検証=経験によりあるべき解決策が醸成される。 念の為であるが、経験とは新しい体験及び、より深い体験のことである・・・この経験を喜んでできる人が知的思考能力を身につけるのである・・・・・

この曖昧性をその都度、俊時に、または、速やかにあるべき方向を見出すのは、現実的には不可能であり、それが故に、人間の脳は自動脳という機能を持つようになったと、Kozyは捉えている・・・・しかし、この進化した脳に、人間は縛られて成長が困難になってしまった・・・・・

以上の説明で、Kozyの言いたいことを得心していただける方は、相当、本Blogの愛読者であり、“3355”の実践者であると存じます・・・・・

また、この三つの要素について、他のテーマでも言及しながら、説明を試みたいと思います・・・・・・


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October 19, 2008

弱者の論理の正当性への考察・・・・・

健常者の弱者=未熟者とは、同意語であることを前提に、弱者の視点と弱者の論理というものを考えてみて欲しい・・・つまり、物理的なハンディキャップや先天的遺伝子問題に起因する弱者にたいする捉え方と、自分で勝手に自分自身がが弱者だと捉えている人たちは、分けて考える必要がある・・・・

また、健常者の弱者=未熟者=甘えている人達ということでしかない・・・この人たちの視点を正しく理解することは大事であるが、甘えまたは間違った認識に基づいているのが、俗言うところの弱者の視点であり、その弱者の論理もこの視点から生まれているものであることが圧倒的に多いのである・・・・

これらの弱者の人たちは、自分たち自身が、本人が如何に否定しようとも、成長することを回避することを選択している・・・潜在意識の中で、はっきり、むしろ正しく、成長することが自分にとっては大きな苦難を乗り越える必要性を認識しているからに他ならないのである・・・

この回避行動と自分が成長することに伴う苦難を避けたいが為に、攻撃行動にでることも、根っこは同じことでしかない・・・一方、本Blogでも何度も言っているが、自分の弱さ加減を正しく勝つ強く認識することは成長への第一歩でもある・・・いったい同じように弱者であるという認識でありながら、成長していく弱者と成長を拒否する弱者の分水嶺はいったい何なのか・・・これが正しく認識されていない・・・・・

本Blogで悪さ加減、弱さ加減の正しく強い認識を説いているが、よくよく読み返してみていただければ理解が深まると期待するが、分水嶺となるのは、自分は人間だから弱い、つまり、自分だけが弱いのではなく人間である限りはすべての人が同じように弱いということを理解できるか否かが分水嶺になってくる・・・・

恨みや嫉みということも、自分のことは棚に上げて相手に期待だけをするところから生まれる感情であり、そのための個人攻撃は、おかど違いである・・・人間であるから、弱いから、悪い事をしてしまう・・・つまり、嫉んだり恨んだ僻んだりする対象の人たちと自分がとっている行動も同じ根っこから出てくる行動でしかない・・・・・もしくは、相手は何も悪くない・・・・

本当に人間の持つ構造的な問題点を本当に理解できたなら、相手を恨んだり、憎んだり、嫉んだりする事が無くなるばかりか、如何に周りの人は、同じ人間として、如何に頑張っているのか、そして、自分と同じ人間なのに、ここまでの事をしてくれているのかが、否応なしに見えてくる・・・・

この分水嶺の違いを齎すのは、自分は独自の存在である、また、周りの人間も独自の存在であるという考え方に囚われているからである・・・人間は誰もが同じ構造的な問題を抱えていることへの理解が不十分であることを理解できていないだけである・・・

表面的な違いを生んでいるのは、育った環境と経験の違いに起因するだけなのである・・・・

この点では、誰一人として同じ人間はいないのは事実であるが、人間である限りにおいて同じ構造的な長短を持っている・・・・人間の構造的な問題=短所にだけ囚われていると、心も体も病んでいってしまう・・・・

しかし、人間の長所である知的思考能力を屈指して、希望を失うことなく、事実を直視して、チャレンジし続ける生き方は、恋に落ちることと同じ高揚感を齎してくれる・・・この体験的な理解=体得の経験を、これ即ち苦行でもあるが、出来た人が、真の成長へ導かれる・・・・

本Blogで何度か触れているが、社会を、そして、自分を理解するには、闘病生活、貧乏生活、投獄生活の三点セットが必要なのであろう・・・この三点セットを、Kozyの最新の理解に基づき掘り下げてみたい・・・・

1.闘病生活(治る見込みが無い)

一般的には、五体満足で健康でいるだけでどれだけ幸福なことか、つまり、“足るを知る”ということになると思うが、Kozyは、個人的には、また、経験上は、物心がついたときが入院中であり、幼稚園に入る前から、ひらがなを覚えて、外で遊ぶことが出来ないので、病院で何とか物語などという子供向けの本を読み漁っていた・・・

始めは楽しかったが、あるとき病院の窓から見た同世代の子供達が、駆け回ったりして遊んでいるかを見たときに、その笑顔がまぶしく思えてきて、退院したら、読書しか出来ないときは別にして、健常者である限りにおいては、体を動かして遊ぶほうが、如何見ても楽しいはずだと思った・・・・

恐らく、三つ子の魂百まで・・・実は、これは、心理学的には正しいとされているが、その後、小学校時代は真冬でも短パンしか穿かないような、毎日日が暮れるまで外で遊んでいる小学校時代を過ごした・・・真っ黒な少年であった・・・

つまり、今考えると、この当時から、自分で考えて工夫して遊びの技術の達人になる=自分で考え、決断して、実践をして、必要に応じて修正していく事がどれだけ楽しいことかを、内観するに、体得した気がしてならない・・・・

Kozyは、色々考えて工夫して上手くなる=心が元気になる、そして、自分の知恵で実践をして楽しむ=体が元気になる・・・このことを体感するのが、それが出来なくなることにより、その楽しさに気がつく、これが本当の闘病生活から体感できることでである気がする・・・

また、生死にかかわる、または、死線をさまようような闘病生活は、死んだらどうなるかは論理的には自分が死なない限り自分が納得できる答えは得られないことを知らしめてくれる・・・この事は、死は自分だけではコントロールできるものではなく、死を恐れても何時死ぬか誰も解らない事であり、今を如何生きるかしか自分で出来ることは無い事を知らしめてくれる・・・・

こんな当然の現実を直視させてくれるのが闘病生活のメリットだと捉えている・・・・

2.貧乏生活(浪人生活が正しい)

昔から、“人の不幸は蜜の味”というさめた言葉があるが、確かに、本当の大人に成長できない人たちが、現代社会では9割を超えるKozyの研究成果から言うと、圧倒的多数の人に当てはまる言葉であり、現に、Kozyがある日突然に貧乏になったときに、多感な少年の目は鋭いが故に、同情は自己満足の成せる行為・・・と強く感じさせられたのは事実である・・・

しかし、始めは反発していたが、同情による援助が如何なに小さくても、それがなくて生きていけないが故に、心の中では反発はしたが、継続的に小さな援助をしてくれる人とそうで無い人がいることを知り、また、自分が感謝することにより感謝の連鎖のが、徐々に、自分自身に帰ってくることを体感していった・・・・

また、この小さな感謝の連鎖を社会システムに織り込んだのが、当時の育英会の特別奨学金制度であり、つまり、貧乏にめげず頑張って成績優秀な人は普通の奨学金の倍の金額が与えられるが、半分は返還が免除される制度を知ったことであり、このお陰で、Kozyは高校だけでなく大学まで行かせてもらえたのである・・・・全ての納税者のお陰でなのである・・・・

このことを体感していたKozyが、就職をして初めて給料をもらい、それまでは母子家庭で税金は払ったことがなかったが、我が家の中から自分が納税できるようになったことを、嬉しくて仕方なかった・・・勤労、教育、納税が日本国憲法の三大義務であり、勤労と納税の義務を果たせた=日本人として、憲法上は、大人になった・・・・しかし、周りの誰一人として納税を喜ぶ人はいなかった・・・・・

また、貧乏生活は、否応なしに、毎日如何に生きていくか、また、如何にお金を節約すべきかを考えさせられる状況のことであり、常に頭を使う、現実を直視して知恵を生み出す生活であり、逆に脳は活性化して、この点では心は元気になっていく・・・正に、貧乏また楽しからずや・・・・

確かに、プライドの類はずたずたにされる部分はあるが、自分にとって何が一番大事で維持すべきプライドなのかは、若くして自問自答せざる得ない機会を与えてくれた・・・・

尚、浪人生活という視点では、実力があるにも拘らず、浪人生活を余儀なくされることを通じて、本人の市場価値の理解の重要性と、取り組みたいことが大儀として私利私欲が無いのかが大事であることを理解をさせてくれる・・・・

3.投獄生活

この投獄生活を含めた三点セットは、電力の鬼といわれた松永氏だが、はめられたものであるが、認めれば釈放になるものを認めなくて統監された経験を持つ、これは贈収姶に絡むものであり、社会的信頼を維持する為に、認めなかったものである。・・・投獄生活では、質素な食事の方が、健康に良いことを悟らせてくれたと松永氏は、後日述べているが、恐らく、当時の法律では違反でなくとも、信義誠実の原則を貫くことの重要性と、この様な現役人生の中で自由な時間を持つことの意義を感じ取ったのであろうとKozyは捉えている・・・・

このことを言い換えれば、自分自身の知力だけでは駄目、自分だけの行いだけではすまない、情動との戦いが、自分が自分に克つことにより社会的な支持が、一般大衆への希望を与えることに伴い生まれてくる・・・・・個人的には投獄生活は経験したことが無いが、これらを体得したのではないだろうか・・・・・

北野武が以前、人間は貧乏と死の恐怖から開放されればなんでもできるといっていたことがあるが、この貧乏の恐怖も死の恐怖も、考えるだけ、時間の無駄な恐怖感でしかないとKozyは捉えている・・・Kozyの胆力の源泉かもしれない・・・・・しかし、これは、現実直視による知的活動の賜物でしかない・・・・

現実直視による真の知的活動が出来るか否かが、自己成長の出来るという視点での強者と弱者の分水嶺になる・・・つまり、弱者の思考は、不適切な恐怖感に縛られて、現実直視が出来ていない論理であり、多くの場合は正しくないのである・・・その代表が社会主義国の崩壊である、つまり、人間の構造的な問題の正しい認識を避けた論理であり、まさに、非現実的な空論でしかない・・・・・・

よって、変化の時代における正しい意見は常に少数派にしかならない構造的問題がある・・・少数派の意見として独善的な意見となるか否かは、述べてきたような現実の理解が出来ているか否かによるのである・・・・だから、Kozyは“現実は神の啓示”として自分に常に言い聞かせている・・・・・人間の構造的な問題を考えるに、死ぬまで言い続ける必要がある・・・

人間は、死ぬまで成長が出来る・・・・また、その覚悟が大事でもあるのです・・・・

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October 12, 2008

この世に生を受けて、何の為に生きているのでしょうか???・・・・

今週は、生まれて直ぐに両親を亡くされて、親戚に育てられた女性と結果として話す機会を持った・・・活発で明るい女性であり、初めてこの話を聞いたときは、驚くと同時に、自己内に確信めいた気持ちが湧いてきた・・・つまり、人間がポジティブに成れるという本質は、そうでないと生きていけない・・・・

自分の所為でないことをいくら悔やんでいても、何にもならない、むしろ、悔やんでもどうしようもない事を悔やんでいると、自分の心のエネルギーが下がるだけで、いいことは何もない・・・また、自分の両親が居ないことは如何否定しようとしても否定できない・・・

これは、心のエネルギーのマイナス要因でしかなく、プラスのエネルギーを送り込まなければ生きて行けないと体感させられる経験を持つことが、結果として、ポジティブに生き続けるうちに、他の人たちより身いつもより大きなプラスのエネルギーを維持することに繋がっていく・・・・・

これが生物も人間も持っている恒常性の機能の齎すものである・・・・・KozyはこのBlogの中で何度か、自分の所為でないことは居直ればいいじゃんと言ってきているが、この居直りが出来るのは、自分の中でこれ以上は悔やんでいることが辛すぎる限界に達したときに、この居直りが出来るようになる・・・限界に達するまでは何度も悪あがきをしていた時代を思い出す・・・・

この様な経験を25歳までに出来た人は、今の時代は甘やかされる=守られることにより、非常に稀になってきている・・・だから、25歳を過ぎてから、守られるようながきの時代を過ぎても、情動が自動的に起動してしまうが故に、すねたり、相手を恨んだり、嫉んだりする甘えの行動をとる・・・この事は更に自分自身の衰退への悪循環に追い込んでしまう・・・・・

現代の日本における間違った大人とはの認識があり、それは、表面的な言葉の理解としては、相手を傷つけないことを大事にするという言葉に代表されるが、この本質は相手に恨まれることを避ける、また、周囲に人間に無神経な人間に思われることを避ける事でしかない、・・・・・このことを端的に言い換えると、自己保身だけの生き方を意味する・・・・・

この生き方の最大の問題は、自分から自分で考えて決断をして自分で検証の為の行動をとらない生き方であり、主体性や能動的な行動を破棄することでしかない・・・・この延長には、不必要で不適切な恐怖感という呪縛から逃れることは出来ないばかりか、実際には脳を殆ど使用しないで自分の脳に縛られるだけの生き方を意味するのである・・・当然、脳の本質である怠惰性に縛られることであり、脳は日々退化していくのである・・・・

残念ながら、この様な生き方をしている人が多数派なのである・・・一体、この世に生を受けて、何の為に生きているのでしょうか???・・・・Kozyは、自己保身だけの受身の流される生き方は、生きているとはいえない、生きるとは周りとの相互作用を起こすことだと思っています・・・

流される行き方が一番嫌である・・・待っているのは、あり地獄に落ちていくだけです・・・・

少なくとも、自分に起因することでないことは、どんなことであれ、受け入れて居直れば良い・・・・また、自分に起因することは、潔く受け入れるしかない・・・・ユーモアとレジリエンスの関係でもアップロードしましたが、本当のあるべき大人になれない人は、人間の持つ構造的な問題を、人間であることを省みることなく、受け入れることをしていない・・・・

つまり、人間なのに人間であることを否定している・・・だから、不必要に悩み、不必要に心のエネルギーを浪費している・・・
人間だから、醜い心も持つが、同時に美しい心も持つことが出来る・・・人間の愚かな部分を笑い飛ばすことが、ユーモアの精神そのもであるとKozyは捉えている・・・・そして、レジリエンスの強化になる・・・

自分自身の人生を振り返ってみると、芦屋市立山手小学校に転校したときに、あまりにも経済的な環境が異なる人が多く自分が貧乏であることをなかなか言い出すことが出来なくて、苦しんだときに、自分が悪いわけではないと居直ることが出来た・・・・

後付の理屈かもしれないが、内観してみるに、この時に自己内の醸成されてきた概念(これをKozyは、自己内の神の声と捉えている)は、人間のくだらない見栄等によるプライドに縛られるのは、人間の構造的な問題であり、人間だから仕方ないが、一体何のプラスになるんだ、自分が悪い訳ではないとの概念的整理が出来たのだと捉えている・・・・

冒頭に述べた今回あった女性と接していると、明るく能動的で、結婚も無事して、働いてそこに楽しみを見出している姿を見るに、何か同じようなものを強く感じた・・・・・仕事にしても人生にしても楽しみは見出すものなのである・・・これが出来るようになって初めて夢を見る資格を得ることが出来、能力が付いてくるのである・・・・・

本当のあるべき大人は、何が本当に相手を傷つけることかを知っている人である・・・・また、何が本当に自分を守ることなのかを知っている人です・・・つまり、本当に生きることは何なのかを知っている人なのです・・・端的に言い換えると、死ぬまで自分に対してチャレンジし続けることが、生きることなのではないでしょうか・・・・・・

しかし、むりをしすぎてはいけない、適度なむり、継続できるむりを心と体にかけ続ける事が大事です・・・心も体も楽をさせればどんどん駄目になるだけなのは自明の理・・・・・・むりを漢字にすると無理、つまり、理が無い、つまり、ことわり=理が無いことを意味する、即ち、普遍なことが無いことと同じです・・・だから、何でも出来るのです・・・

ここで大事になるのが中庸でありバランス感覚ですが、これは種々の経験を積み重ねて五感を磨き自己内の概念の言語化能力を上げるしかない・・・そして、この自己内の概念である自分自身の中の神の質を如何に向上できるかが、生きることであり、生きる目的である・・・

以前恋愛とチャレンジの関係を述べましたが、チャレンジすることのワクワク感を十分に感じることが出来るようになれば、人生はワクワク感の連続になっていく・・・これが、Kozyの捉える幸福感であり、ポジティブ感情の源泉になる・・・こんなことを整理させてくれた人との出会いであった・・・・

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October 07, 2008

地方経済立て直しへの一考・・・・

旅行(出張)記として、近畿圏の旅の後、裏日本も訪問して、北海道も札幌と旭川近辺を二度にわたり既に訪問したので、47都道府県は、まだ制覇していないが、一様日本の主要地域は回ってきた・・・総じて地域の拠点都市は、相対的に元気に感じるが、地方都市の殆どが、確かに疲弊している・・・・・

一方、学生時代に一年休学してヒッチハイクで世界一周をして来た時に、ふと気がついたこと、つまり、一人でヒッチハイクに出かけるような人の出身地を聞いていると、一番地域の人口比率で世界にヒッチハイクに来ている人は、九州の人たちで、その次が関西、そして、その次が四国や中部地区の人たちで、北国から来た人にあったことがない・・・・このことを思い出してしまう・・・・・

北国の人たちは、冬は、外ではあまり遊ばない・・・みな二の人は一年中外で精一杯遊べる環境の違いが、地域の青年達の特性を生み出しているのではないだろうか・・・また、長州、薩摩、土佐の人たちには身近に海の存在があったことが潜在的に影響を与えていたのではないかという気がしてならない・・・・また、自然の猛威の象徴でもある台風の存在も影響している気もする・・・・・

また、地方の町では、1000円以上の昼飯を注文すると、非常に量が多いことがあり、量が多いことが高いとの価値観を感じる・・・Kozyは、できるだけ地元の特産品的なものをたのんでいるので、非常においしいにも拘らず、最後は食べきれずに残してしまう・・・・都会では、逆に結果として量が少ないことが高級の証明になっている・・・

また、腹八分を超える量を出すことは下品であるとの価値観もある・・・・・

また、ある町の駅で降りたときに、レストランも喫茶店も、かっては存在していたが、全てが廃墟になっているところがあり、当初は不景気の所為かと思ったが、人の流れが郊外型にシフトしたことが原因であることが後で解った・・・・

都会や都会の近辺では、日本中何処もそうであったが、駅がその当時の町の中心に出来ると煩いので、離れた場所に駅を作った経緯が歴史的にはあるが、今では、駅の近くが栄えている・・・・恐らく、この背景には町の発展と人口の増加に伴い、通勤客が人の流れを変えたのであろう・・・・

あまり、発展しなかった町の駅は、車社会の到来と伴に、駅には人はあまり流れてこないということになったのではないだろうか・・・・・

地方に行くとよくあるのが、13:00ぐらいから16:00ぐらいまで電車が来ない駅があり、喫茶店に入り地元の人の話を聞くようにしている・・・・・

つくづく感じるのが、不景気を受身的な捉え方しかしない。 しょうがないと諦めている姿勢である・・・長い間の日本経済の官僚支配から、官僚を未だにお上として捉えている・・・政治どころか地方の人たちの官僚支配からの脱却が、今の地方社会には必要だ多感じざるを得ない・・・・

確かに、現在においても、日本経済は市場主義でもなく、自由主義でもなく、官僚が支配する予算が地方の経済の半分以上を占めており、お上頼りになるのは、理解できるが、今までの日本は社会主義国家であるといっても良いほどであったが、社会主義国家が、内部腐敗により崩壊して言ったように、官僚には国民を第一と考える民主主義は崩壊しており、組織の存続主義に陥っている・・・・これでは、日本はよくならない・・・・

どんなに不況の時代が故に、不況が故に儲かる商売もあり、また、不況とはある変化への構造改革が起きていることでもあるのが事実なのである・・・・なかなかこの様な視点で物事を見れる人はいないとは思うが、受身の姿勢で生きていくことが、今必要は人材を抹殺していることを直視して欲しい・・・・

また、量が多いから高額になるという発想も棄却すべきである・・・この発想では、価格競争しか生まれないのである・・・これが、地方経済を不必要に低迷させている・・・もっと、美味しいから高い金を出しても食べたい、腹八分だから美味しいという気持ちで追われる、そして、ここでしかないから無理してでも入手したい等々の異なる価値観への理解を深めるべきである・・・・

つまり、商売とは、また、新しいビジネス・モデルとは、過去の価値観に囚われずに、今(価値観の)何が変化してきているかを見抜き、速やかに対応をとるところから生まれてくる・・・もっと掘り下げると、最悪どうなってしまうのかを直視するところから、それを避ける為、また、生き延びる為に如何なる手段を講じるかを人より早く対応することでしかない・・・・・

地方を回ってみてどうしても感じてしまうのは、地方の人たちが、もうこれからは期待できない官僚支配による官僚からの予算を期待して地元の政治家に圧力をかける・・・つまり、ありえない妄想に縛られた発想が、日本経済を悪くして、そのつけが、地方に回ってくるという悪循環を呈している・・・

この点では、今世界的な金融恐慌になってきているが、同根の問題、つまり、人間の構造的な問題に起因している・・・環境問題も然りなのである・・・・

KozyのBlogの根幹である、21世紀は人間が進化しない限りは、地方経済ばかりでなく、また、日本だけでなく、人類は滅びてしまう・・・・この危惧を払拭するような、たとえ胎動であろうと、未だに発見できない・・・微力ながらBlogで発信するしかない・・・・・

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October 04, 2008

認識すべき、好都合な現実・・・・

前々回に、不都合な現実の話をしたが、今度は、好都合な現実で、恐らく多くの人が認識していない、もう一方の現実、つまり、人間を取り巻く陰陽の陽の部分を紹介したい・・・・

先ずは、前々回の不都合な現実とは、一言で言い表すなら、脳の構造的な特性が成すものであり、全ての原因が脳が曖昧性を習得することにより、脳が発達したことに起因するもの、つまり、人間の本質の理解、その中でも陰の部分の深い理解が必要だということである・・・・他の生物には、この様な曖昧性はないのである・・・・

何事も表裏一体であり、陰陽の部分がある。 Kozyが着目する脳科学の知見の中で一番、やはりそうかとと思ったのは、人間の脳の発達という意味で、人間の他の体の部分と同様に、25位で成長が脳も止まるということである・・・

この成長が止まるという意味は、脳内のメイン回路との繋がりを意味しており、25歳から人間は中長期の展望を踏まえて、物事を判断するという人間としての回路のメインなネットワーキングが出来るということである・・・・・

そして、進化論と生態学からは、変化に対応して、新しい生態系で生き残るのは、強いものではなく、自身を含めて新しい生態系の構成者に対して、また、新しい生態系の安定化および存続に対して、最小のエネルギーで最大の貢献を、出来るように変化できたものなのである・・・・・

つまり、自分が属する生態系に対して、また、自分自身に対しても、最小のエネルギーで最大の効果を生むのが生物の生存の為の基本ルールなのである・・・これが出来なければ、種として、また、個人として、崩壊せざるを得ない・・・・

これらの表現は綺麗な表現であるが、常に最小のエネルギーを求めるとは、言い換えると怠惰性が、生物および人間の本質であると考えられるのである・・・実際に、自己変革を求める場合には、個人の崇高な目的だけでは、誰も自己変革は出来ないのである・・・・

もう一つの、脳科学で発見で面白いのは、ミラーニューロンが大脳辺縁系のではなく、前頭葉の部位で発見されたこと・・・そして、恋に落ちるワクワク感や恋いているときのワクワク感が、恐怖感を感知する部位でも反応をすること・・・・

そして、人間の脳は人間の肉体的構造、および、五感の分布の広がりに大きく依存して発達していること、また、肉体と脳が強い相互作用の関係にあること、また、更に面白いのが、生命の恒常性という基本法則、つまり、行き過ぎるとそれを元に戻そうとする性質である・・・・・・

以上の陰の側面が前々回にポスとしたことに繋がるが、その深い意味を理解すると、その裏にある陽の部分が理解できる・・・・

・・・・・・最初に言いたいのが、いかなる恐怖感も対峙していれば、五感は麻痺するが故に、慣れてくる・・・そして、慣れてくるとそれまで見えなかったものが見てくる・・・そして、見えなかったものが見えることに伴い、そこに誤解があることが理解できてくる・・・そして、人生の不惑に通じる、自分自身の恐怖感の強さの順位が整理されてくる・・・・・

・・・・・・今の時代は変化のスピードが人類史上最大である、その変化に対応するには、本当に小さなエネルギーの意味することは、やれる事を日々やり続けること・・・今生きている、今日という時間の中で、すごいエネルギーを出したとしても、それ自体は毎日やることは出来ない、所詮は小さな日々の累積エネルギーが、その方向性のチェックできる側面もあり、一番効果的になるのである・・・・・

・・・・・・人間の怠惰性に克つには、一石二鳥ではなく、以下に二鳥を何鳥にも増やすことが出来る洞察力、つまり、中長期の展望を正しく持ち、また、社会の相関関係を理解することにより、何鳥にもなるのである・・・これを可能にするのが深く広い経験とそのメカニズムを理解する知的理解力でもあるのです・・・・

・・・・・・自分の為にという目的は、人間の持つ怠惰性には打ち勝てないのである、自分の大事な誰かの為とか、自分を支えてくれている人に報いる為とかでないと、人間の持つ怠惰性には勝てないのである・・・・また、支援してくれる人はなかなかでてこないのである・・・・・つまり、生態系の一員としての個人は生態系のその他の一員達との相互作用の中に存在している・・・

つまり、支えあっているということはお互いに利用しているということでもあり、必要なときに助けを求めても良いのである、なんとなれば、生態系の一員であるからである・・・・しかし、利己的な目的では駄目なのである・・・・

・・・・・・曖昧性を習得した人間は、瞬時の判断を可能にする為に、大まかなくくりで物事を整理して、瞬時の判断を可能にしているが、脳は、曖昧性を上手く司る為に、理性と感情=情動を別にして、理性と情動が一致する方向でない限り行動に出れないメカニズムを構築した・・・・

理性とは、人間の思考は言語でしか出来ないが、その言語自体が大きな曖昧性を含んでおり、理性は事実の確認があって初めて有効であるが、事実認識には大きな、それまでの限られた経験から来るバイアスがあり、人間の本当の理性とは非常に疑わしいものでしかない・・・また、集団の愚かさや社会的な文脈に踊らされている・・・・

一方、情動こそが、言語化されていない自己のないに蓄積されたものから起動されるものであり、情動のほうが理性より、より現実に即した、反応を導く側面を持っている・・・しかし、これとて、経験してきた現実が狭く浅い場合は、当然、現実とはかけ離れた、自分に都合の良い妄想でしかない・・・・・

しかしながら、中長期の展望能力といえば聞こえは良いが、25歳で十分の中長期の展望が持てた時代は、はるか昔の時代であり、現代人は、25歳までの経験が一生の足枷になってしまう・・・・技術革新を標榜した人間の怠惰性が、人間の脳の習得した進化をはるかに超えてしまうストレス社会を作り出している・・・・・

現代社会では本当の熟達した大人になるということは、現実社会では、意図的に自分の脳により作られた言動パターンが通じなくなったときには、まずは、白紙の心で=素直に現実を受け入れて再学習をして現実社会をより正しく学習していくことにより、成長が成されるのである・・・・・

英語では、もっと端的に、それまで習い信じてきたもの(LEARNしたもの)をUNLEARN=棄却して、現実に基づき、RELEARN=再学習することと表現される・・・・この時に役立つのが、一つは五感は全て麻痺する特性と何も考えなくても自然に言動に繋がる常に深く掘り下げて考える習慣を身に付けることなのである・・・・

如何に良い習慣を身に付けるかにより如何なる人生が送れるかが決まってしまう・・・・・

生まれたばかりの人間、そして、自立=自活できる前の人間、親に見捨てられては生きていけないために、また、最初に学ぶ対象が親であり、親から何度もインプットされるが故に、自分の価値感の8-9割以上が親から学んでしまう、また、植えつけられてしまう・・・・

今より変化のスピードがまったく遅かった時代から、先人は“老いては子に従え”との経験則を述べているが、現代のような変化のスピードが人類史上一番速い時代においては、全ては仮説でしかなく、普遍なものはないことを肝に銘じて、こだわりをもたないことが非常に重要な時代になってきている・・・・

何事に対しても、敢えて確信を持たない生きる姿勢が求められているのである・・・生きることが、人類史上、一番辛い時代を生きているとの覚悟が必要なのである・・・・・現代における不惑とは、正にこの覚悟であるとも云いえるのである・・・

これらの事は、言い換えると、白紙の心を持つことは難しいが、何事にも縛られずに自由に自分で掘り下げて考える、そして、そこで出て来た仮説を現実社会の中で検証していく・・・・これだけで良いのである・・・・この自由が現代人には与えられている・・・・人類史上、一番自由が与えられているのである・・・・

・・・・・人間は、情動に縛られるが情動は過去の経験に縛られている、本人が自由意志だと思うことでも、その自由の規定ですら過去の経験に縛られている・・・しかし、人間が人間として成長できる所以として、情動に従う前に、約0.5秒の猶予期間が設けられていることが確認されている・・・・

この確認期間を有効にするのに、強い覚悟が有効なのである・・・つまり、強い覚悟とは情動に縛られないことを意味しておりどんなに辛いことでも目を背けないという脳内信号の確立を意味している・・・そして、情動がたとえ起動しても、目を背けずに対峙していると、それまで見えなかった現実が見えてくるようになる・・・・

・・・・・・強い覚悟の確立は、超ネガティブ思考の先に生まれる、または、完膚なきまでの逆境の経験を通じて、本当に自分が一番怖いもの、または、本当に自分だ守りたいものが、はっきりした時に覚悟は確立される・・・つまり、どんな辛いときも、それは、この強い覚悟の醸成の道のりなのである・・・この過程を楽しんでください・・・・

・・・・・・もう一つ、情動に縛られない方法があります。つまり、情動が起動する前に理性を活かして、自分で考え、自分で決断をして、自分から自発的または能動的に行動をすることです・・・・受身の生き方は、先に情動が自動的に起動してしまうが故に、情動に縛られやすいのです・・・だから、日ごろから掘り下げて考えていることが大事になる・・・・

・・・・・・Kozyが自分に言い聞かせる多くの言葉の中に、“受身になっては負け”というのがあります、同じ意味で、英語で“Challenging is life”とも言い聞かせています・・・この様なBlogを書いていると、若いときには何度も自分に言い聞かせていたことを思い出します・・・まさに言霊となってあるときからこの生き方が体に沁み込んだのでしょう・・・・・

・・・・・・昔から三無主義というのがありますが、この人達を観察していると、心理学的には、ポジティブ心理学の創始者でもあるセリグマンの学習無力感の研究に繋がるのですが、これは結果であり、学習無力感に陥る人の特徴の一つに、受身的な生き方があり、自分の意見を小さな勇気があれば、誰でも言えることを言わないというのが在ります・・・

そして、結果として、暗黙の了解をしたと認知されてしまう・・・ますます意見がいえなくなる・・・この悪循環に落ちていく、特に日本人は、空気を読めることをよしとする文化的文脈に縛られやすいので、同意をしない意見を言えなくなる人が多くなる・・・・裏を返せば、自分が馬鹿にされる、または、自分が浮いてしまうことを恐れる、この気持ちが過剰反応を起こしている・・・・・

異なる意見を言わない、また、単純に相手に同意する、・・・これは、相手を気遣ってのことという人がいるでしょう・・・この

事は、相手の成長を阻害していることでしかない、そして、自分が悪循環に陥ることでしかない・・・これでは集団の愚かさだけの社会になっていく・・・・だから、最小に小さな勇気が必要なのです・・・・

まだまだあると思いますが、机上で考える浮かんできません・・・いつか、またの機会に、追加をします・・・・・

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