現実と自分の折り合いをつける能力とは・・・・・
選択と折り合いへの考察してみると・・・・人生を生きることは選択をして前に進むことである。しかし、この選択のときに大事なのが、現実と本当の自分との折り合いを付けれる能力を如何に持てるか、しかし、選択の時間は限られている・・・また、現実との対峙能力、本当の自分を人間は概念的には、個人的には確りと捉えていると理解はしているが、この概念を正しく言語化することは非常に難しい・・・・
ここで重要なのが広く深い経験とそれに基づく思考能力という洞察力である・・・・しかし、人間としての叡智としては、経験と思考、端的に言い換えると、経験にともなう情動と理性という名の思考能力の折り合いを付ける能力なのである・・・
この折り合いとは、経験と思考の仲介機能に大きく依存するのである・・・Kozyも若い時に、Mediation=瞑想として捉えて、瞑想の機会を意図的に作ることを意識してきたが、むしろ、“無我”の境地という言葉の意味に憧れていた側面が強すぎたと反省している・・・・
つまり、瞑想にふけるには、年齢とそれに伴う経験により瞑想の目的が異なってくるというべきだと、今は反省している・・・つまり、如何なるものが、どの様に影響力を発揮して、どのような結果へ導くのか、その多次元さと複合的な動的な影響、この影響も、約6割ぐらいが直接的な因果関係であり、残りが複雑で多次元名間接的な因果関係である“縁”によるものである・・・・
そして、直接的な因果関係はまだ理解をしやすいが、間接的な因果関係を理解することは非常に困難なのである・・・釈迦もこの点では普通の人には、不可能ではないが不可能に近い、つまり、現実的には無理であろうという趣旨の言葉を残している・・・
ジョージ・オーウェルは端的に「いやしくも物を考える人間なら誰でも、頭脳の内部で起きていることを描写するのに、私たちの言語は事実上役に立たないことに気づいている」とも云っている・・・・
では、多くの人達、特に若い人達は、自問しても生きづまり、同じ過ちを犯す人が余りにも多いのは何故なのか、一つは正に本当の有りの侭の自分を傲慢な思い上がりというプライドに縛られていて、自分を、馬鹿で醜い自分を受容できない・・・そして、受容できないから、自己のバイアスに縛られてあるものが見えない・・・・
正しい現実と正しい自分自身が解らなくて折り合いが付けられる訳がないのである・・・・最近、Kozyが無意識のうちに何度も口にする言葉として、“人間の持つポテンシャルとして(つまり、脳の構造的な特性より)、誰もが素晴らしく成長する可能性を持っていると同時に、最悪の人間になっていく両面を持っている”・・・つまり、人間みな大なり小なり大して変わらないのである・・・・
また、生命の恒常性より、最悪の人間に100%なれる人はいない・・・残念ながら、凡人では100%善い人にもなりきれない・・・これも人間の本質の一つなのである・・・・だから、誰もが悩むのです・・・・
つまり、くだらない虚栄心に縛られて不幸になっていくか、人間が故にちょっと油断すると不幸になっていく構造、つまり、自己の悪さ加減を正しく強く認識して自分に常に言い聞かせることにより、幸福な人生を全うするか・・・これが人生の分水嶺になるのである・・・・
本Blogで何度か触れたことがあるが、関西には金儲けの三かき・・・という言葉があるが、汗をかき、義理を欠き、恥をかくことの三つの“かき”を実行すれば金儲けが出来るという意味であるが、この深い含意は、人間が幸せになるには、あるべき三かきをすれば善いと理解をしている・・・・
つまり、努力という汗をかかなくては幸福を求める資格がない・・・・
本当に守らなくてはいけない義理とは、何なのかを掘り下げることなしに、不必要な義理に縛られているようでは幸せにはなれない・・・・つまり、自分を守ってくれた人ではなく自分を支えてくれた人達には感謝の念を忘れない・・・出来るお返しをする・・・出来ないことを誰も期待していない・・・・・
本当の恥とは何なのか、このことを掘り下げることなしには、幸福にはなれない・・・つまり、恥とは、自分自身で感じるだけの感情であり、その結果耳が赤くなる状態を表した漢字なのである、周りへ自分の虚栄心を示そうとして、それが受け入れられないから感じるものではない・・・・
また、個人には個人の個体差および各個人の固有の経験があるが故に、本当にどれだけ出来ることを頑張って実行してきたのかは、論理的には自分自身しか判らない・・・しかし、未熟な人は、人に褒められたいと思う、たとえ十分やれることを実行していなくとも、褒められることで自尊心を維持したつもりになってしまう・・・
この様な自尊心は、やれることを頑張って実行しなくても褒めてもらえる状況に、自分自身が甘えてしまう・・・つまり、脳の持つ怠惰性にマケ癖をつけるだけなのである・・・・・本当に褒めることが出来るのは論理的には自分だけである・・・この歴然たる事実を忘れることにより、馬鹿げた恥に縛られる・・・・・
以上で少しは理解を深めていただいたと希求するが、関西で云われる“金儲けの三かき”とは、自分自身が大事だと思っている恥や義理をかくという実践を通じて、それまでの社会的な通念を再学習する、そして本当に守らなくてはいけない義理と本当にかいてはいけない恥とは何なのかを体得することが、結果として、お金がついてくる・・・・幸せになるのに十分なお金はどれほどのものかを体得させてくれる、人生のトレーニング・コースの一つであると、Kozyは、理解している・・・・
季節柄、五月病の時期であるが、サラリーマンの格言の中に“三日、三ヶ月、三年”というのがあるが、この説明は以前しているので省略するが、今回は、この意味の中で、“現実と自分の折り合いをつける”という切り口で紐を解いてみると、・・・・・・・・
最初の三日間で社会人として生きていく覚悟の表出として、学生時代の怠惰な生活からの決別が試される・・・
最初三ヶ月で、現実と本当の自分の直視能力が問われ、その体得具合が、自分自身の言動に表出してくる・・・仕事においては、全体の流れがわかっていない、如何分担して仕事をしているかがわかっていない、また、頭でわかっても体が自動的には反応しない、つまり、経験とはこの反応速度を高める事でもある事を解っていない・・・・
人間は過去に習得した知識や経験を通じて、自動的に反応する回路を作っているが故に、新しいことに対する面白さや重要性の理解は直ぐにできない、それ故、端的に言うと失敗をするように出来ているのである、失敗はこのレベルでは、自分がやれることをやっている限りにおいては恥ではないのである・・・・・
人間が人間である為には、これらの失敗から如何に多くを学ぶかが問われるのである・・・・困ったことに社会人になる前までの成功、つまり、社会的なスキルは、其れまでの、たとえ同世代であっても限られた人間社会で有効であったスキルであり、如何世代の中でも非常に多くの多様性があり、世代が異なれば社会的な文脈の異なりより、更なる多様性がある・・・
上述のような社会的なスキルは、失敗の傷を大きくしてしまうだけのものが多いのである・・・・
そして、三年もすれば、“本当の現実と本当の自分との折り合いをつける方法論=スキル能力”が表出してくるのである・・・だから、組織社会の中では三年で一生が殆ど決まってしまうのである・・・・・・・
また、標準的には22歳で就職すると考えると、25歳という年齢になるが、脳科学的にはちょうどこの年齢で、自分の中での判断基準の優先順位が一旦固まってしまう時期と重なるが故に、三年間での学習は大きな効果を生むのである・・・・つまり、他の人より悩みが少なく成長が出来るのである・・・・・
しかし、現代という時代は、技術革新が人類史上、最高のスピードで進展している。昔から、Kozyは多くの大人の愚痴を聞いて、また、社会人の生き様を、母が独身寮の寮母をしていた関係で、若くして人間の成長の問題、そして、社会のメカニズムを感得してきた・・・・・・・・
通常の人には味わえない環境に身をおいてきたゆえ、“自分の人生は25歳までに決めろ”と自分にいい書かせると同時に友人にはアドバイスをしてきた・・・・・脳科学の最近の知見からは、この捉え方は正しかったと確信している・・・・
現在という時代では、技術革新が齎す価値感の変化のスピードの高速化が、昔はまだ25歳までといいえたが、今では、25歳までの経験と習得したスキルでは、不十分になってきていると確信している・・・・・・・
正に一生、それまで体得したものが、現実と折り合いが付けれなくなったら、速やかにそれまでの価値観から知恵ですら棄却して、白紙の心で現実を直視して、自分を直視して、折り合いをつける=再学習の連続である・・・このことが、人類史上で一番強く求められる時代に入っている・・・・・
この様に考えると、今や、虚栄心は言うまでもなく、プライドの類の殆どが維持するのではなく、何時でも棄却できる存在として捉える生き方が求められる時代認識が必要になる・・・正に、赤ん坊のように白紙の心で何でも経験を厭わずに、経験を通じて再学習された実学ですら、棄却する為の強い仮定であると捉えることが必要なのである・・・・・
新しい経験、より深い経験等は、嫌なことと感じるのは当然です・・・みんな同じなのです・・・大事なことはそれまでの限られた経験により醸成された自分の殻に回避をしないことです・・・この回避行動をしていくことは、ますます、折り合いを付けることが難しくなっていくことなのです・・・・この様な馬鹿げた選択だけはしないで欲しい・・・・・


Recent Comments