日記・コラム・つぶやき

October 19, 2009

脳の性の多様化と婚活・・・雑感


最近は出張で、後三県を除き、全国走破してしまったので、何度目かの訪問地が、増えてきた・・・そうすると、悩んでいる人がすぐ分かるKozyとしては、放っておけないので、それとなくカウンセリングをしてしまうことが増えてきている・・・

恐らく数十年後には、脳、つまり、如何いう生き方をしているかが、顔(特に表情括約筋)や、体の各部の特徴などに、如何現れるかがの殆どが解明され、それらの知見が常識となり、一切嘘をつけない時代が来ると見ている・・・回教徒の女性のように目以外は全て隠さなければいけない時代になるのかもしれない・・・・・

現在は、まだ、一部の専門家だけが掴んでいる、人相学や、手相や、場合によっては星占いの一部なども科学的に解明される時代が近づいてきている・・・・それらの科学的な知見が一般の人にも共有化されるということは、邪気や私利私欲は見透かされ、善なる気だけが指示を受ける時代に変わることにより、人間は次なる進化を遂げる、または、駄目人間の強制教育とうことが、成されるのかもしれない・・・・・

男性は意識したところしか見えないが故に、また、女性は映像的に見えるものを全て観察できるが故に、男性は女性の観察能力と比較すると、女性の八分の一しか観察できない・・・・しかし、これも全ての男女がそうであるとは限らないが、現在の脳科学では、五感を通じて“What”と“How”に整理されるところまでは同じであるが、整理された情報がその後に流れていく回路は男女は大きく異なるところまでは解明したが、それ以降はこれからの研究成果を待つしかない・・・・

男性ホルモンや女性モルモンなどの内分泌系の研究も非常に進んできており、男性の脳回路の使われ方と女性の脳回路の使われ方も、生まれつきの生物学的な性と生まれた後の養育環境により20-25歳ぐらいで、男性の脳回路の使い方になるか、女性の脳使い方になるかが決まってくること、つまり、体の性と脳の性との二つの性の存在があることは確認されているが、脳の性については、単純に男性脳と女性脳とはいかずにその間もある・・・・・・・・

以前に、ディジット・レシオ(digit ratio)についてアップロードしたが、当初の研究は同性愛者の傾向の指標として捉えられていたが、むしろ、今では、男性脳なのか女性脳の度合いがどれほどなのかの指標として捉えてよいだろう・・・・また、個人的に多くの男女を観察してきたが、ディジット・レシオは、男性脳と女性脳の指標としては非常に信頼性が高いものであると確信する・・・・

しかし、観察能力は脳の使い方には関係が非常に薄いと捉えている・・・これは、恐らく、現代の人類が生まれた時は、まだ狩猟が中心であったので、男女の役割分担として、男性は男性ホルモンを通じて体が大きく筋肉質として戦える能力が与えられた、同時に恐怖の対象である獣から目をそむくては狩猟など出来ないので、恐怖の対象を見続けることが出来る脳回路が作られた・・・

女性は、種族保存の為にも、恐怖の対象から男性に守らせると同時に、子供たちを守る為に視界を広く且つ、男性のように意識したもの以外は見えないような視界の狭さでは、敵を見て夫を見て、子供を見て、どの方向に動くかを総合的に判断することを可能にする脳回路を持ったと思われる・・・種族保存だけを考えれば、男性は9割戦いで死んでも問題がない・・・・・・

また、以前“おばあちゃん仮説”が確認された旨のアップロードを、大人になるまでの期間が長ければ長いほど高等動物であり、高等動物の養育は、経験が大事な側面があり、動物の中で人間のメスだけ閉経が起きるのは、幾つになっても女性が発情して子供を作っていては、高等動物の養育が上手く機能しない為に、生理をとめて子育てを補助する機能を持つということなのである。

逆に男性は、種族保存のために幾つになっても発情できるようになっており、幾つになっても収まらない人がいるのは種族保存を考えた時には、自然なことなのかもしれない・・・・先人の言葉に、“腹は借り物”という言葉があるが、この言葉は優秀な遺伝子の存在からは理解できる面はあるが、感覚的には、所詮は男性は“種馬”出しかない・・・その証拠ともいえるが、現在の自然環境への進化の遺伝子であるミトコンドリアは、母親から娘にしか遺伝できない・・・・

男性脳と女性脳回路の違いは、正に、男女の違いを表すのであるが、現在は種々のアプローチにて如何に違うのかが研究されているが、少なくとも次のようなことが言いえるのであろう・・・・

男性脳は、意識したもの以外は、殆ど見えない回路が存在する、そして、男性ホルモンの存在より闘争本能がすぐに起動してしまい、かっとなってしまう、つまり、アドレナリンが大量に出やすい・・・男性が下手にプライドが高いのは、男性脳の特徴なのである・・・・先人の言葉に、“あさだち”のないやつに金を貸すな、また、“英雄、色を好む”などは、男性脳の特徴を現している・・・・

しかし、前頭葉を屈指した科学的思考、特に社会の現実を論理的に整理する事においては、事実を徹底的に解明することが出来て初めて本当の科学的な思考が出来る・・・これが、命の危険も顧みずに戦うことと、もう一つの特徴として、理性的な判断、つまり、科学的な思考能力を向上させている・・・・

しかし、生き抜くという生命力、強い情動、つまり、強い覚悟と意志の力は、女性と比べると脆弱なのである・・・・最近のアメリカ映画で体を求める男性、心を求める女性という宣伝コピーを聞いたような気がするが、全面的に肯定をする気はないが、否定をする気もない・・・

女性脳は、その時々の大局を見事に見抜く能力が、観察力の大きな違いによりもたらされる回路が存在するのであろう、しかし、強い情動に支配されやすいので、その時々の大局ですら、ましてや、中長期の展望は更に強く影響を受けてしまう構造的な問題が存在するのであろう・・・・・

女性の多数派は、男性脳と女性脳が顕在化してくる思春期において、男性脳と異なり男性の八倍の観察能力が発揮されてくるが故に、“厭なことは見ない、考えない”という知恵を身につけてしまっている・・・この種の女性は、男性に論理的な理解を深める為に、論理的な説明能力を求める・・・・

また、生き抜く強さを持つ女性は、そのための源泉となる心のエネルギーの維持=免疫力の維持には非常に大事にしている・・・それが故に、たとえ衝動買いで後で後悔をすることがあっても、その時々のあるレベル以上の心のエネルギーを重要視している。 それに伴い、批判されることを嫌い、自分の悪さを認める・・・つまり、自分が落ち込むことには強い抵抗を示す・・・・

一方、現在社会に眼を向けると、男女の特性を無視したジェンダー・フリーや、競争を全て悪いこととして、また、教育の三原則である、学校教育、家庭内教育、そして、コミュニティ教育で、どの教育でも叱らないとして、間違った教育により、90年ごろの大学生を境にして、それまでの男性的性格尺度では、男性はいなくなってしまう時代に入ってしまった・・・・

怒ることは個人の感情の発露であり、叱ることは相手への愛情の発露である・・・この二つを混同してしまった・・・・

元々の構造からは、女性は肉食系であり、男性は草食系であるが故に、女性には女らしく、男性には男の子らしく育てる人類の長年の知恵が活かされなくなり、女性は本性である肉食系になり、男性は90年以降は草食系になってしまった・・・通勤時に多くの男女のディジット・レシオを観察してきたが、若い男性の多数派が、男性脳ではなく、女性脳を獲得している・・・・

オカマキャラの流行により、カミングアウトする人が増えているが、今女性に人気がある男性で優しいイメージのある男性の多くも折にふれてみていると、女性脳の獲得者が多く、業開通に聞くと、やはり、オカマで有名だという・・・・

この様な男女が増えてくれば、確かに結婚相手を選ぶことは、従来の異性に望むことを選定基準とすると、論理的に難しくなる・・・しかし、あるべき論理的相性から言えば、正反対の性格のほうがシナジーが生まれやすいので、結婚の相性は上手くいくのであるが、男性は、男性ホルモンがあるが故に、闘争力があるが、この闘争力がむしろ、無意味はプライドに走り、女性脳を習得しているにもかかわらず、プライドに縛られ、更に悪いことに、論理的思考力が弱っている・・・・

先日の出張時に、関係した三十代の独身男性に、結婚相手に求めることを聞いてみたら、第一が〔“自分”が一緒に生活しても“気楽”でいられる人〕・・・・そして、第二が〔“自分”を(成長へ)導いてくれる(時に励まし、時に叱ってくれる)〕・・・・・これが、答えであった・・・

“自分”とは何ですか、両親の価値観を9割以上引き継いだだけの人間のことですか、それが“自分”ですか、“自分”とは、種々の広く深い経験を多くの人との交流、つまり、相互作用を受けて変化=成長していくものであり、死ぬ直前が“自分”ですよ・・・・・この“自分”が“気楽”でいられるとは、成長をすることを諦めることですか、しかし、第二では成長をしたいということですね???!!!・・

“気楽”とは、ありのままでいられることですね?・・・成長=変化は苦痛を伴います、しかし、成長は人に元気を与え真の楽しさを与えます・・・この二つの点で“気楽”といっているのですか?・・・・

以上の質問を投げかけてみました・・・

“自分”などは、一時の幻想でしかない、“気楽”とは、一時の気楽と恒常的な“気楽”と二種類あり、求めるべきは恒常的な“気楽”であり、これは、広く深い経験を通じて、広く深い物事のシステムを理解することにより齎されるものでしかない・・・

しかし、これらは苦痛を伴う修行のようなものであり、自分の変化を必要とするものであるが故に、男性は、結婚に恐怖感を抱いてしまい、踏み切れない・・・・

確かに、女性は真剣に婚活をしないと結婚が難しい時代になっている・・・・男性は、変わることへの覚悟の醸成なしには結婚には踏み切れない・・・やはり、出来ちゃった婚でないと駄目かもしれない・・・

| | Comments (0)

October 12, 2009

ペットの49日を終えて・・・・

Kozyの家は300年以上にわたり神主をしていた村上源氏の家系なので、仏教ではなく神道になのだが、室内犬であるペットの死は、また、16ヶ月で他界したペットは家族同然であるので、最長の50日間の「忌中」を終えたところである。 神道では50日が多いが、一般的には、つまり、仏教では49日が多いが、4=四 9=苦、つまり、生・老・病・死の四苦の語呂合わせから来ているのではないかと、今回初めて感じた・・・・・

「忌」は故人のための祈りに専念する期間であり、また、死の穢れが身についている期間であるとされるいるが故に、かつては「忌」の期間には家の中に篭り、穢れが他の者に移らないように外部との接触を絶っていたとされている・・・・また、「喪中」の期間は「忌」と「服」に分けられ、両方をあわせて「服忌」(ぶっき)または「忌服」(きぶく)という。

「服」は故人への哀悼の気持ちを表す期間であり、最長で1年(親、子、配偶者の場合)である。この期間は慶事への参加、慶事を執り行うことを控える。・・・・今回は、「服」はまだ終了したくないので、あえて、「喪中」でなく「忌中」を終えたと表現した次第です・・・・

しかし、ペットの死で仕事を休むことは出来る世の中ではないが、研究活動はさすがに取り組む元気もなく、休憩とした・・・しかし、二年以上毎日飲んでいた薬が、免疫力が落ちた為にそれまで一切なかった副作用が出てきて、薬を変更せざるを得なかった・・・・今更ながら、人間の健康が如何に、精神と肉体が密接に繋がっているのかを再度体得させていただいた・・・・

Kozyは、今まで何か悪いことが起きても、その現実を“神の啓示”として、つまり、現在の自分自身に対して、今後生きていくときに何が大事なのか、何がおかしくなって来ているのか、何を再認識する必要があるのか、・・・ある意味では警鐘を聞くようにしてしてきた、つまり、自分の現状を含めた全ての現実の徹底的な直視を行うことを課してきた・・・・

しかし、今回は、今までと違い、あまりにも短い犬の生涯であり、また、その死の原因が自身の管理責任に起因していたので、自責の念があまりにも強く、不憫にも思えて自身の落ち込み度合いは今までで一番深く強かった・・・同時に、徹底的に現実直視をして自身の非を見つめなおしていたので、体に種々の異変を起こしてしまった・・・それでも対峙し続けた・・・・

今回の事件で自分で理解できた“神の啓示”は、次のとおりである・・・・・・・・・・・・・・・

1. 真の愛情・優しさとはということです・・・・実は、ドッグランに連れ出す時に、ペットの二度目の生理が始まっていたので、他の雄犬が現れるのではないかとの危惧より、妻に一緒に行こうと言ったのですが、疲れているから厭だといい、妻がペットの散歩の準備をしてしまい、いってらっしゃいといわれた・・・・ペットを飼っている人はご存知と思うが、おおはしゃぎしだして、このまま散歩に連れて行かないのは、あまりにも可愛そうだと思い一人で連れ出してしまった・・・・

自分の中でも胸騒ぎがしていた故に、本当の愛情を持っていれば、本当に優しい気持ちを持っていれば、連れ出すべきではなかった・・・・また、それまでに面倒がらずに、勝手に道路に飛びなさないように訓練をしておくべきだった・・・真の愛情とか優しさは、どんなにかわいそうな瞬間があろうとも、感情に流されないこと・・・真の優しさは駄目な時はどんなにかわいそうでも、諦めさせること・・・・・

Kozyは、自分の人生で後悔は何もないが、唯一時々思うのが子育ては反省点がありやり直したいと思うときがある、しかし、子供があまりにも可愛いが故に、同じ過ちはくり返さなくとも、必ず、異なる過ちをしてしまうだろうということに確信を持っていた・・・・俗に言うところの甘やかしをしてしまう・・・・この点では、同時に二人の娘が五体満足で生きていてくれていることに、それだけでも、感謝して十分あまる・・・・

もし再度ペットを飼うことがあれば、この様な可愛さに負けない愛情は女性には、より困難であるが故に、自分自身が責任もてない限り、ペットを飼うことに賛成してはいけない・・・実は、前のペットをマレーシアから持ち帰るときには、自分は責任をもてないが故に、誰かにげておいあて行こうと話したが、妻と娘が、散歩から全て自分達で世話をするとまで確約したので、持ち帰った・・・しかし、約束は守られなかった・・・・病気で死んだので、今回の様に交通事故で死ぬことなどは、自分達には起きないとの間違った認識を家族全員が持っていた・・・・犬を飼う資格は、我が家にはないということを突きつけられた・・・・

情に負けない愛情・優しさは、人間には完全には実行しがたいものではあると思うが、これからはもっと強く自分自身に言い聞かせて生きたい・・・・情けとは施すことと施さないことの両方がある・・・再再度、肝に銘じて生きたい・・・・

2. 今回、再認識したことに、人間の持つ、または、生命の“恒常性”の存在のである・・・本Blogでも、以前述べた気がするが、恒常性とは、常にある状態を保とうとすることです。 恒常性はホメオスタシスと英語では言いますが、以前より、自律神経系、内分秘系に免疫系を加え「ホメオスタシスの三角形」と呼ばれており、内分泌系も免疫系も脳との多くの関係が確認されており、精神の安定化という観点では、どんな問題があろうとも、あるレベル以上に精神が落ち込むと、ある期間を経ると、落ち込みを戻そうとする、謂わば、精神系のホメオスタシスが、存在する、また言い換えると、精神系にも“自然治癒力”が存在するということです・・・・・・・

残念ながら、この精神系の自然治癒力が腑に落ちる人は非常に少ないと思います。 自己経験から言えることは、災いまたは逆境に直面した時に、その現実に対して徹底的に現実の確認をすることが、より辛い感情をもたらそうとも、直視出来た後にだけ、この治癒力が起動し始める・・・・自分の何が悪いあかを認め改善の努力をする覚悟を決める、または、本当に自分にはどうしようもなければ、居直ると腹をくくる・・・・このステージを避けて人の所為にするとか、現実の直視を逃げてしまう、そして、改善の誓いや居直ることもせずに、引き続き生きていこうとすれば、何時までたっても治癒力は起動してこない・・・・

50日または49日という期間は、正にこのぐらいの日数が必要な期間であるという先人の経験則から来ていると強く感じた次第です・・・・また、これが、逆境しか人を成長させないということの本質だとも言いえるでしょう・・・・

3. 約四年前のペットロスでは、それまでの11年間のペットとの生活の長さの違いかもしれないが、また、今回は直接的な管理責任が自分自身にあった所為かも知れないが、前回は、妻と娘の立ち直りは非常に時間がかかったが、今回は、如何みても比較論で言うと女性族は立ち直りが早かった・・・・前回は娘は5キロもやせ、妻もやせ細るぐらいであったが、今回はやせた気がしない・・・・自分だけ目も落ち込みやせた・・・・・

この理由は、今もハッキリしないが、恐らく女性と男性の情動回路の違いから来ているのであろう・・・・女性は一緒に生きた期間により依存するのだろうか、そして、男性は本来なら長い未来があったのと捉えて奪ってしまった未来時間により依存するのだろうか・・・・確かに、女性のほうが現実的であり、男性のほうが未来というロマンティックなのかもしれない・・・脳科学のこれからの男女の脳回路の使い方の違いの研究結果を待つしかないのあろう・・・・

これからまた、研究活動に復帰して、そこからの新たな発見を中心に発信していきたい・・・・Kozyももう立ち直りましたので、ご安心ください・・・・しかし、現在の住まいは鬼門なので引越しはする予定です・・・・

| | Comments (0)

August 23, 2009

また、ペットロスで喪に服します・・・・

たった3年9ヶ月前に、ペットが亡くなり、喪に服しましたが、その後、三年近く次のペットが飼うことが出来なくて、昨年やっと同じ犬種で正にそっくりの子犬を買いました。 しかし、昨夜、車にはねられ、頭蓋骨をひかれたようで即死しまいた・・・・・・

前回のペットは、10歳で病気で死にましたが、今回は家の近くの奥まった広い駐車場で、日中は暑いので、夜11時過ぎにドッグランをさせてやりたくて、連れて行って遊んでいる時に、急に全速力で嬉しそうに、家のほうに走り出し、追いかけましたが、ドンという音と急ブレーキの音が聞こえ、横断舗装に血を流している空(くう:ペットの名前)を見つけました。・・・・

その後すぐに動物病院に連れて行きましたが、家からタクシーを呼ぶ時には、呼吸は停止状態でした・・・・

動物病院では、頭蓋骨が砕けて首の骨も折れていて諦めてくださいといわれました・・・・・一歳を過ぎたばかりのあまりにも短い空の人生(犬の人生)・・・・・

恐らく何かの音をママも合流すると勘違いして走って迎えに行ったのでしょう・・・・・笑っているような死に顔です・・・・・


あまりにも突然のことで今でも信じられません・・・・・責任は自分にあります・・・・・今までこんなことはなかったので、気が緩んでいたのでしょう・・・・再度ペットを飼える様になれるかどうかは、分かりませんが、娘がまた飼うといっているので、もし、そうなったら、完全に仕切られたところ以外ではドッグランは、させないし、出来ないでしょう・・・・・・・

しかし、四年以内で、二度ものペットロス、・・・・・以前発信しましたが、室内犬の場合は、身近な人間の死と同じように、空が居た空間に空が居ない、その前のペットのチビの死の時の空間ロスもあり、この家を出て他に家に住むしか道はない・・・・家族全員の合意です・・・・・

ペットの死は、以前に述べたように家の不幸を持ち去ってくれるとの考え方がありますが、悲しみだけが残された・・・・・・

今は、空の冥福だけ祈るだけです・・・・・

こんなに早く、再度ペットロスで喪に服すようになるとは・・・・・さすがに落ち込んでます・・・・

| | Comments (0)

March 03, 2009

雑感・・・リーダーとは、リーダーの選定とは・・・・・

商社に居た頃は、サクセス・パス、つまり出世コースというのは営業で実績を上げることに尽きた・・・具体的には役員になる頃、そして、役員になった後でも伸びる部門に関与していることが大事であった・・・メーカーでは、お金の生み出し方や節約が必要な時代には経理関係、技術が必要な時代では技術系、販売力が必要なときには営業出身というように、正に、タイミングという運が必要であった・・・・

しかし、なんと言っても一番稼いでいる部門が社内発言力を持つのは当然である・・・経理関係はRisk Managementが必要な時代に浮上するが、実際は、時代が一番経営上大事なものを持っている人が社長になる・・・また、確かに技術革新のスピードが人類史上一番速い時代には、技術的な洞察力と顧客の求めるものを肌で感じる能力が一番求められ、経理出身を社長に選ぶのは論理的には考えられない時代になっている・・・・

しかし、コモディティの世界で生きていくにはコストマインドの高い経営者が必要となるが、この点では技術系の中でも製造技術ばたの社長の到来も考えられる・・・・

欧米的な経営の発想では、Business Development、Effective Operation、そして、Risk Managementの全てに長けているのが良いが、この経営の三大要素のどれに一番比重をかけるべきかの認識に選ばれていく・・・日本的には、それらの三大要素の要因である、人、物、金のどの要因が一番強化が必要な時代かの認識に依存して決められるのが筋である・・・

現状認識として、企業のLife Timeつまり、生存期間は短くなってきている、また、昔は、“寄らば大樹の陰”ともいわれ、大企業はつぶれないといわれたが、この変化の激しい時代では大きいが故に、変化への対応において、変化の胎動を知るのに時間がかかり、動くにも末端まで浸透するのに時間を要するが故に、潜在的には非常に危険な会社になるのである・・・

しかし、Globalizationの齎すものとして、新技術の伝播のスピードが速まり、直ぐに、多くの商品がコモディティ化してしまう、そのためには大量生産によるコストダウンは不可欠になり世界市場で3位ぐらいまでに入れない企業は飲み込まれてしまう時代に入っている・・・

一方、Globalizationは全ての商品およびサービスで起きる訳でもないものであり、その地でしかその価値は認められない商品やサービスがあり、これをLocalizationと呼ぶ・・・ある意味では、Made in JapanというブランドもLocalizationのエリアの商品として捉えることも出来る・・・・・

自社が置かれている状況を直視して、自社に適した上述してきたようなことのベスト・ミックスを経営者は構築することが出来る人、そして、その先のゴールとしてのビジョンを提示できる人、そして、そのための戦略を練ることが出来る人と言いたいが、残念ながら、戦略のLife Timeも短くなっており、如何にゴールに近づけるかの努力は部課長に任せるしかないだろう・・・・

つまり、現場での変化の胎動の感知能力、それに基づく知的で現実的な戦略の構想能力が必要になる・・・しかし、これらの能力は、人間の持つ構造的な問題である変化を嫌うところに打ち勝つ人材が必要になってくるのである・・・これ即ち、人間としての自己成長が必要であり、また、自己成長を阻害する要因を廃する行動を経営者が率先垂範できることが大事になるのである・・・

トップが範を示すことなしには、如何なる新規な人材開発といわれる策をとっても絵にかいたもちにしかならない・・・

Kozyは今まで色んな人にリーダーとして一番大事なのは胆力だと断言してきているが、胆力とは、本Blogで、現在一番読まれている精神力、気力、胆力の違いと構図で述べているように、この三つは、強い相関関係で結ばれており、三点セットの側面があるが、どれだけ多くの成功体験を築いてきても、常に自己を否定して白紙の心で物事のあるべき姿を志向および思考することであり、変化することを恐れない心が胆力の本質です・・・・

しかし、人類はリーダーの選択では間違いを繰り返してきている・・・Kozyは知る人ぞ知るハーバードの“Working Knowledge”に加盟しているので、その中で、・・・What do you think? Why can't figure out How to select leaders・・・がOn-line forumでありそれをみていたが、答えは出てきてない・・・

胆力がなければ、現実がただしく見えない、現実が正しく観測できなければ正しいリ-だーシップは発揮できない、正しいリーダーシップを発揮しようとすることは自分が変わる胆力が必要であり、人を引っ張るには愛他性と自己犠牲も必要になるが、これも胆力がなければ発揮は出来ない・・・・

職場ごとに仕事での重要度の高い価値観は異なるが、社会的な文脈は技術革新のスピードアップを受けて常に変化し続けてきており、この変化が重要度の高い価値観にまで動的な影響を及ぼして生きているのが現代社会であり、如何なる変化も嫌がるのが人間の本質であり、自己評価は常に過大評価されやすいのが人間でもある・・・・

だから、リーダーの選定はその権限を行使する対象がどのような集団かにも左右される・・・それなのにリーダー選定を上の人間だけが行なうが故に、上手くいかない・・・現社長が後任の選択権を持つことは、取りやめるべきだと思っている・・・社長が任命権を持たないとイエスマンは大幅に減るのである・・・これがRisk Management上大きいのである・・・特にこれからは・・・・

| | Comments (0)

February 24, 2009

今回を人類最後の世界恐慌できるか・・・これが問われている

日経で“景気循環と恐慌”のゼミナールとして、もう既に種々の景気循環論などが紹介されて、既に、本日ので36回目を迎えている・・・種々の循環論に触れて同時に異なる循環論がふれられているのを見ていると、いったい幾つの循環論があるのか厭きれてしまう・・・・

経済学者は、所詮は、後付けの理論を過去になってから理論化している・・・分析や解析を行なえばいくらでも後からいろんなことが言いえる・・・しかし、景気循環論がこれだけ多くあるということは、まだ誰も景気循環論の本質を理解できていないことを示している。

しかし、少なくとも今までのところ、Kozyの捉え方をする理論は現れてきていない・・・景気といえば、自然災害の影響を受ける場合は別にして、需要の読みと供給の読みのギャップが景気循環の根本にあり、無知さと強欲さが導いてきたが、そこには当然大きな技術革新の波の影響をもろに受けてきた・・・・

しかし、歴史的に見ても、1980年大の後半から、つまり、ICTの技術革新が本格化し始めたときから、Great Moderationと呼ばれる鉱工業生産の振れは、また、インフレの振幅の幅超安定化してきた・・・・ そして、ICT技術の革新を受けてトヨタの看板方式を代表とする在庫管理技術が飛躍的に向上したことも大きな原因になる・・・

そして、金融政策の運営手法も飛躍的に向上してきたが、金融工学に代表される証券化やレバレッジを多用する、正に強欲な技術が洗練されてきた。80年代ぐらいまでは金融経済は実体経済の三倍ぐらいでしかなかったが、Kozyは十倍を超えていると危惧していたが、最近の種々の情報を見ていると三十倍ぐらいに行っていたのではないかと思われる・・・・

この裏には実体経済という製造業では日本に太刀打ちできないとの認識より、金融経済による実体経済=製造業を支配下に置こうとの米英の戦略的な動きがあったと捉えているが、正に、ミイラ取りがミイラになってしまった・・・しかし、金融経済が約十分の一には収縮することは、正に大恐慌を起こしてしまうのは自明の理ではある・・・・

英語では、Old same story、つまり、同じ過ちの連続という意味の言葉がるが、米英のこの様な国家戦略は二度と容認されてはならない・・・強欲は罪であるが、この様な地球規模の国家戦略に踊らされる無知さも罪なのである・・・

しかし、何故この様なことが起こったのかという事を考えてみると、科学や技術は、事実を基にして誤解の生じない記号化と公式に拠る革新が成されるが故に、今まで発達してくることが出来たが、人間は未だに基本的には何も進化できていない、つまり、発達できていない・・・・

また、大事なことは過去から学ぶことしか出来ない人間が如何に未来を読む事が出来るかが問われているとも言いえるのかもしれない・・・・・

しかし、ICTの技術革新が齎した社会は、60億人以上の人類が住む地球を、あたかも弥生時代などの集落の単位でもある200名ぐらいのコミュニティーの中で何かをすれば周りに直ぐ影響が出る小さな地球、ガイアと呼んでも良いが、かっての大きな地球のような分断されたコミュニティの存在をなくしてきている・・・

また、この様に一つのコミュニティーと化してきた地球においては、釈迦の言葉を借りると“因縁生起”、つまり、直接的な因果と間接的な縁により全てがおきる訳であるが、理論物理学のクォークの世界の言葉で言うところの強い相互作用と弱い相互作用に基づき全てが発生しているということに相通じるのである・・・・

また、ICTの技術革新が齎した時間と距離を超越したインターネットの世界は、強い相互作用をより強く、さらに、弱い相互作用を最大化する力を秘めている・・・人類は今回のような、世界恐慌を二度と起こしてはならない・・・次回はガイヤそのものの崩壊に結びつきかねない・・・・

そのために難しいことを言う気はないが、実は、人間の構造的な問題からいうと非常に難しいことではあるが、大事なのは事実に目を背けない、そして、その事実の共有化さえ出来れば、人間が成長できるばかりか、社会は必ずよい方向に進むのである・・・

しかし、人間は都合の良い事実は認識できるが、不都合な事実は認識しようとしない構造を持っている・・・くれぐれも何が本当に事実かは執拗に掘り下げることが必用なのである・・・・・

また、多くの人との対話を通じて洗練されていくものでもあるのです・・・・忘れてほしくないのは、未来を作るのは何時の時代も私たち自身なのです・・・・・・

ちょっと難解になりすぎたとしたらご容赦ください・・・最近のKozyはこの様に考えているところです・・・・

| | Comments (0)

February 15, 2009

やっとか、または、もうなのか・・・・10万件のアクセスを達成

本Blogが、開始以後4年10ヶ月弱で、やっとアクセス数が10万件を2月12日に超えた、一部では有名なBlogではあっても、Mixiやその他には露出していない点で言えば、他の人のBlogでは、珍しくないもない。正確には2月11日に99,999件となり、12日の0時以降に最初に訪問した人が、10万件の人となった・・・・

何時10万件になるかと思っていたが、2月11日は建国記念日であり、正直言って記念日としては抵抗があったが、母の命日でもあり、11日に99,999件で終わったことは、何か意味があるのかと考えているところである・・・

しかし、個人的には“もう”10万件に達したのかという気分である・・・・意図的にあちこちに露出したわけでもなく、自分自身が有名人でもなく、日記的なBlogでなく、どちらかと言えば、楽しい記事はなく、人間の持つ愚かさ、つまり、本当の自分を直視する、つまり、つまらないプライドや無意識のうちに両親から引き継いだ価値観を、本当の自分として何を本当に引き継ぐのか読者に問うている・・・・

また、脳科学や心理学の最新の知見の紹介など、そして、如何いう組織、如何いう経営、如何いう人材の育成、Kozyの意見は、育成よりも人間の発達をどのようにして導くべきか、論じてきている・・・

KozyのBlogは、どちらかと言うと、目を向けたくない“不都合な真実”を発信しているようなものでもある・・・この様にKozyは捉えているが故に、“もう”10万件のアクセスを超えたのかという捉え方をしている・・・・

この不都合な真実とは、人間の脳は五感を通じて脳内に情報が取り組まれるが、全てが曖昧な情報でしかなく、それが故に正しくそれらの情報を言語化することが出来ない、しかし、人間の思考は言葉を通じてしか出来ない・・・・また、脳は最初のエネルギーで最大の効果を求める設計になっている、だから、大雑把に物事を体系化し整理する、見ているつもりでも現実を見ていない、考えているつもりでもそれまでの考えの延長でしかなく、まさに、頭の中では最小の回路の使用しかしていない・・・・

皮肉ではあるが、この情報の曖昧性が、人間の脳を進化させた・・・・それ故に、子供から大人に成長することは、自己内の両義性=Ambivalent、つまり、自己内に矛盾を抱え込む、これが、むしろ成長過程であり、悩むのは当然のことなのです・・・これでは、脳が大変なので、どちらかにハッキリさせてしまう・・・・これが、バイアスの基本なのです・・・、また、不安の本質は、どちらかを決められないことでもある・・・・

だからこそ、普遍なものはない、その時々であるべき姿は違ってくる・・・このような捉え方が、白紙の心であり、この白紙の心があって初めて現実から、それまでの思い込みを戒めて大事な再学習が出来る・・・・この再学習に一番良いのが初めての経験やより深い経験なのです・・・・・話が長くなるので、ここで止めます・・・・

実は、あるときから10万件のアクセスを超えたら、カウンターをBlogに表示しようと決めていたので、本日よりアクセス・カウンターを表示することとします・・・・しかし、Niftyの表示のアクセスカウンターは携帯からのアクセスはカウントされていませんので、表示された数字は、2500件ほど減ったものになっています・・・・PCからだけのアクセスで10万件を踏むのも楽しんでください・・・・・

毎月、一人は一度に20件以上読まれる読者がいますが、一度、朝から晩まで100件以上、途中の昼食と夕食と思われる時間を除いて、読んでくれた読者がいましたが、頭の整理には貢献できるBlogだと自負しています・・・訪問された方は、腰をすえて読んで頂くことを祈念しています・・・・・

今後とも、宜しくお願いいたします・・・・

| | Comments (0)

December 07, 2008

太陽系の中の人間の陰陽の考察・・・・・・・

恐らく太陽系には、人間以外の高等動物、つまり宇宙人はい存在しないと思うが、広い宇宙には宇宙人は存在していると考えるのは、むしろ普通の考えかもしれない・・・今回はこの様な空想の世界観ではなく、太陽系を一つの生態系として捉えて、その生態系の一員として人間を捉えてみたい・・・・

事の発端は、陰陽の思想にはもっと深いものがあるのではないかと考えたからである・・・・惑星や恒星との関係は相対性理論で説明が付くと思うが微妙なバランスの中で太陽系は維持されているが、いずれは太陽も限界を向かえ、消滅と同時に新たな星の誕生を迎えるのであろう・・・・・太陽系の構成物である地球としての生態系について考えてみたい・・・・

地球上の生命体は全て光のエネルギーにより生命を維持している・・・光から熱エネルギーや電気エネルギーに変換もされるが両エネルギーから光エネルギーにも転換も出来る・・・もし、24時間太陽の光エネルギーを地球の同一面が浴びていては、一体日のあたる面は何度になるのであろう・・・つまり、地球が自転していることにより全ての生物が生存できている・・・・恐らく、地球の自転は他の恒星や惑星との相対性理論で説明されえるのであろう・・・・

つまり、太陽光を浴びている時の陽と太陽光を浴びていない時の陰との繰り返しが生命体を維持させている・・・全ての生物が光を浴びているときに活発な活動をしているわけではない、日の強いつまり、暑いところの動物は夜行性になり、夜に活動をして、日中は体力を消耗しないように睡眠等をとっている・・・・

人間に目を向けると、人類の中でも他の動物同様に中東の人たちは炎天下での活動は消耗が激しいが故に一番暑い時間帯の午後には昼寝をする習慣を持っている、そして、子供用の遊園地も深夜まで開業している・・・そのような環境の中でユダヤの神の啓示を受けたモハメッドが開祖として始まった回教徒の戒律は、中東に何度も行っていたKozyは、なるほど・・・と思わされることが多い・・・・

一方、今回のテーマでもある陰陽の考え方は中国思想からきている、つまり、農耕が出来る天候の下の中国の農耕民族社会で生まれた思想である・・・表面的な意味としては、常に物事には陰と陽の部分が共存しているということではあるが、最近は、Kozyはこの含意とはもっと深いのではないかと感じてきている・・・・

生態系として太陽系を捉えると、人間も地球に住む生物として、毎日、日が上りそして日が沈む生態系の特色の中で生きており、この特色を最大限に活かして進化してきたが故に、いまや、地球という生態系であるガイアを潰しかねないほどに進化してきた・・・・・いったい何がその最大の要因になったのか・・・・

単純に昼は働き夜は睡眠をとり体を休めて、適応をしてきたということではないだろう・・・多くの生物が同様に適応をしており、人類に限ったことではない・・・・

Kozyは複雑系の科学の基本である生態系の摂理である、最小のエネルギーで最大の効果を発揮するものがその生態系を凌駕するという視点で、人類は、今や、完全にガイヤを凌駕しており、確かに地球温暖化等の問題などのしっぺ返しを受けて、このままでは人類は滅亡に向かうとは、理解するが、人類は無意識のうちに昼と夜を使い分けて人類そのものの進化を齎してきた・・・・

本Blogで何度も述べているが、Good Switcher=切り替え能力は、まさに、昼と夜で人間は切り替えることの重要さを全員が学んできている・・・・疲れるから夜は眠るという単純なことではなく、脳科学では既に、睡眠中に脳内で種々の整理をして、正に曖昧な情報の整理をしていることが、確認されている・・・・

Kozyは、時々、寝る前に意図的に自分自身で、整理が出来ていないことを考えることにより、この睡眠中の時間を自分の脳に整理させることを行なっている・・・かの湯川秀樹博士も寝ている間に理論だ整理され思いついた、また、皆さんも真剣に考えていることが、寝ているときに解決策を思いついた経験があるはずである・・・・

また、物事を深く考えるときは日中より夜に思考を深めることも多いのではないだろうか・・・しかし、同時に夜の思考はネガティブになりやすく、日中の思考はポジティブになりやすいとの報告もある・・・Kozyは、この報告には自分自身でも合点が行くところがあると同時に、自分がポジティブ思考に入るときは心の高揚のスィッチが入る事を
感知することが多い・・・・

これは、いわば、これから切り替えて楽しむぞ・・・というものに似ていると捉えている・・・また、心のエネルギーのチャージャーのスイッチを切りあえるのと似ている・・・・KozyはよくKozyのことを知らない人からは超ポジティブといわれることが多いが、自分では超心配性な超ネガティブなのが自分の本質だと捉えている・・・・確かに思考のスピードは普通の人より速いというのは実感はしている・・・・

経営の王道の一つに、超ネガティブに種々のケースを研究して、方策が一旦決められたら、超ポジティブに実践していくということがあるが、特に日本人は、最近は減ったかもしれないが、ネガティブ思考に対し悪い事だと捉える風潮がある。しかし、本Blogで述べたように、悪いところや問題点を的確に掴むのもっとも有効な思考法であり、この才能なしには、人間は成長どころか、より多くの問題に遭遇してしまい、下手すれば短命になってしまう・・・・・

人間の日々の活動を司る脳幹は、交感神経と副交感神経、つまり、プラスの交感系、マイナスの交感系ともいえるし、活動的にする交感系と休息の為の副交感系とも言いえるものであり、以前何度か述べた、正に、脳内の活動も含めて、行き過ぎると元に戻すという海水と同じ緩衝液の機能を持っている・・・

恐らく太陽からの光エネルギーを受けて日中はポジティブまたは行動的になるが、人間にとっては、これは経験学習を行なう時間であり、夜は経験から学んだものを脳内で検証して整理をすることが、言葉の取得により可能になると同時に、次に、文字の発明と印刷技術の発明により、記憶の限界を補う、また、伝承に関して飛躍的な精度の向上を齎した・・・・

一方、文明というものを捉えると、第一には250人以下の集落で完結できない人間社会を齎したが故に、人間が人間である所以でもある、25歳までの経験で即断できるように、むしろしてしまう、脳の本質的な機能が、有効機能しない社会を作り出した・・・それが故に、この点でもっとも大きな人類史上での変化が起きたのが、産業革命であり、この時から、精神疾患系の病気が飛躍的に増えてしまった・・・・

第二は、技術革新の進歩が、それまでに不可能であったものを前提にしていた価値観のドラスティックな変化を齎すようになる・・・このこと自体は、人間の育ち方から捉えると約9割の価値観は両親から受け継ぐようになっているが為に、現代のように人類史上、技術革新が一番早い時代においては、多様で多次元な社会と接することにより、自分の持つ価値観の多くが変化を求められる・・・・これがストレスの本質なのである・・・・

第三に、文明の崩壊を読み解くと、その文明の立脚する、または、一番大事な価値観の変革が求められ時に、変わることができなくて、それまでの栄華を極めた文明が崩壊し

ている・・・今の文明の根幹にあるのは、科学の力で楽をすることおよびガイアの中で、人類に都合の悪い事を駆逐していく価値観なのであり、この価値観が変えられない限り、ガイアに築いた人類文明は崩壊を強いられる・・・・・

というい所の三つの側面があり、第一での問題は、人類に人類の脳のメカニズムの進化を求めている、または、教育に対するパラダイムのシフトを求めている。第二では価値観の変化を求めることは、確かにストレスの時代といいえるが、Kozyは人類の寿命の延びは、単純に医学の進歩だけではなく、多様な価値観の習得は脳の活性化に繋がるが故に、使われる脳は健康になるが為に寿命が延びている側面があると捉えている・・・・

第三の問題は、正に人類の存亡にかかわる問題でもあるが、この様な文明が齎したものとして人間の本質的な強靭さを磨く機会の損失を齎しており、人間そのものを非常に脆弱にしている・・・かってチャーチルが民主主義は非常に問題があるが、今、これよしましなイデオロギーがないといったが、現代のような脆弱な人間が今の文明では多数派となるが故に、改良型の新しいものが必要だと捉えている・・・・

このままだと、地球の温暖化が齎すものは、生態系が平均気温が数度上がると、まったく異なる生態系が作られるが、恐らく温度変化が齎す、これまでは生息できなかったウイルスの発生により正に映画“I am legend”のような人類の消滅が来るのであろう・・・人間の脳内にある多くの冬眠ウイルスがその候補かもしれない・・・・

この様な悲観的な考えは日中は思いもしない、まさに、夜だけが思索のときなのである・・・ふと考えると夫婦喧嘩は何時も夜だった!!!・・・・深く掘り下げて考えることは非常に大事であると述べているが、ここで必要で且つ陥りやすいのがネガティブ思考である。 しかし、ネガティブ思考があるが故に、人類は進化してきた・・・・

この必要かつ充分なネガティブ思考の上に、より効率的な実戦に移行するためのポジティブ思考がある、これが陰陽の深い含意ではないだろうか????・・・・・!!!!

!・・・・ネガティブ思考は非常に大事な思考能力であり、問題は、いい加減なところで止めてしまうことにある・・・必要かつ充分なネガティブ思考は、必ず、あるべきポジティブ思考力を高めるのである・・・・・

しかし、一晩だけの考えで全てが整理が出来るものではない、経験学習の積み重ねてその都度のネガティブ思考のパッケイジの繰り返しが必要であり、ときに充電が必要なのである・・・これが心のエネルギー管理の目的なのである・・・知的思考能力の向上とは事実を検証しながら事実に基づくネガティブ思考のことを意味する・・・この繰り返しには、意識的で且つ主体的な取り組みが必要であり、これが、覚悟すべき一番大事な点なのである・・・・


| | Comments (0)

October 07, 2008

地方経済立て直しへの一考・・・・

旅行(出張)記として、近畿圏の旅の後、裏日本も訪問して、北海道も札幌と旭川近辺を二度にわたり既に訪問したので、47都道府県は、まだ制覇していないが、一様日本の主要地域は回ってきた・・・総じて地域の拠点都市は、相対的に元気に感じるが、地方都市の殆どが、確かに疲弊している・・・・・

一方、学生時代に一年休学してヒッチハイクで世界一周をして来た時に、ふと気がついたこと、つまり、一人でヒッチハイクに出かけるような人の出身地を聞いていると、一番地域の人口比率で世界にヒッチハイクに来ている人は、九州の人たちで、その次が関西、そして、その次が四国や中部地区の人たちで、北国から来た人にあったことがない・・・・このことを思い出してしまう・・・・・

北国の人たちは、冬は、外ではあまり遊ばない・・・みな二の人は一年中外で精一杯遊べる環境の違いが、地域の青年達の特性を生み出しているのではないだろうか・・・また、長州、薩摩、土佐の人たちには身近に海の存在があったことが潜在的に影響を与えていたのではないかという気がしてならない・・・・また、自然の猛威の象徴でもある台風の存在も影響している気もする・・・・・

また、地方の町では、1000円以上の昼飯を注文すると、非常に量が多いことがあり、量が多いことが高いとの価値観を感じる・・・Kozyは、できるだけ地元の特産品的なものをたのんでいるので、非常においしいにも拘らず、最後は食べきれずに残してしまう・・・・都会では、逆に結果として量が少ないことが高級の証明になっている・・・

また、腹八分を超える量を出すことは下品であるとの価値観もある・・・・・

また、ある町の駅で降りたときに、レストランも喫茶店も、かっては存在していたが、全てが廃墟になっているところがあり、当初は不景気の所為かと思ったが、人の流れが郊外型にシフトしたことが原因であることが後で解った・・・・

都会や都会の近辺では、日本中何処もそうであったが、駅がその当時の町の中心に出来ると煩いので、離れた場所に駅を作った経緯が歴史的にはあるが、今では、駅の近くが栄えている・・・・恐らく、この背景には町の発展と人口の増加に伴い、通勤客が人の流れを変えたのであろう・・・・

あまり、発展しなかった町の駅は、車社会の到来と伴に、駅には人はあまり流れてこないということになったのではないだろうか・・・・・

地方に行くとよくあるのが、13:00ぐらいから16:00ぐらいまで電車が来ない駅があり、喫茶店に入り地元の人の話を聞くようにしている・・・・・

つくづく感じるのが、不景気を受身的な捉え方しかしない。 しょうがないと諦めている姿勢である・・・長い間の日本経済の官僚支配から、官僚を未だにお上として捉えている・・・政治どころか地方の人たちの官僚支配からの脱却が、今の地方社会には必要だ多感じざるを得ない・・・・

確かに、現在においても、日本経済は市場主義でもなく、自由主義でもなく、官僚が支配する予算が地方の経済の半分以上を占めており、お上頼りになるのは、理解できるが、今までの日本は社会主義国家であるといっても良いほどであったが、社会主義国家が、内部腐敗により崩壊して言ったように、官僚には国民を第一と考える民主主義は崩壊しており、組織の存続主義に陥っている・・・・これでは、日本はよくならない・・・・

どんなに不況の時代が故に、不況が故に儲かる商売もあり、また、不況とはある変化への構造改革が起きていることでもあるのが事実なのである・・・・なかなかこの様な視点で物事を見れる人はいないとは思うが、受身の姿勢で生きていくことが、今必要は人材を抹殺していることを直視して欲しい・・・・

また、量が多いから高額になるという発想も棄却すべきである・・・この発想では、価格競争しか生まれないのである・・・これが、地方経済を不必要に低迷させている・・・もっと、美味しいから高い金を出しても食べたい、腹八分だから美味しいという気持ちで追われる、そして、ここでしかないから無理してでも入手したい等々の異なる価値観への理解を深めるべきである・・・・

つまり、商売とは、また、新しいビジネス・モデルとは、過去の価値観に囚われずに、今(価値観の)何が変化してきているかを見抜き、速やかに対応をとるところから生まれてくる・・・もっと掘り下げると、最悪どうなってしまうのかを直視するところから、それを避ける為、また、生き延びる為に如何なる手段を講じるかを人より早く対応することでしかない・・・・・

地方を回ってみてどうしても感じてしまうのは、地方の人たちが、もうこれからは期待できない官僚支配による官僚からの予算を期待して地元の政治家に圧力をかける・・・つまり、ありえない妄想に縛られた発想が、日本経済を悪くして、そのつけが、地方に回ってくるという悪循環を呈している・・・

この点では、今世界的な金融恐慌になってきているが、同根の問題、つまり、人間の構造的な問題に起因している・・・環境問題も然りなのである・・・・

KozyのBlogの根幹である、21世紀は人間が進化しない限りは、地方経済ばかりでなく、また、日本だけでなく、人類は滅びてしまう・・・・この危惧を払拭するような、たとえ胎動であろうと、未だに発見できない・・・微力ながらBlogで発信するしかない・・・・・

| | Comments (0)

September 14, 2008

人の優しさ・・・何が起動させるのか・・・・

先々週は、奈良県、和歌山県、そして、大阪府を回ってきました。 最後の訪問地となった東大阪市、人の情け、むしろ、人間誰もが持っている優しさに触れて、気持ちよく仕事を済ませて帰京しました・・・

今だから解るのですが、鶴橋から近鉄奈良線に乗る為に、そのホームへいき15:12(?)発の近鉄奈良線に乗るつもりでしたが、15:12分発の普通の電車がきたので、行き先の名前は、普通で奈良行きはないだろうと思い知らない名前の行き先の電車に乗りましたが、予定時刻になっても付かないので、おかしいと思い、詳細路線図を出してチェックしたら近鉄大阪線に乗っていることが解りあわてておりました・・・・

下りた駅は住宅街の真ん中で、アポの時間に遅れるとまずいので、タクシーで飛ばそうと思ったのですが、そこには車自体のほとんど、走っていないいない状態で、近くの幹線道路を教えてもらいそこまで歩いてタクシーを捜しましたが、全く走っていなくて時間だけが過ぎていく・・・仕方ないので、少しでも時間を稼ぐ為に、行き先の方向に移動しながら汗だくで歩いていた・・・

それゆえに、タクシーを呼ぶことを考えて、タクシーを使う可能性のある店を探し呼んでもらうことを考えて、地元のある不動産屋に、自分の携帯でタクシーを呼んでもらえませんかとお願いをした。・・・残念ながら、タクシーの番号を知らないといわれ断られた・・・・

そして、普通の人なら、頭にきてふてくされるかも知れないが、自分でも正直そのとこに何を如何答えたかは覚えていないが、恐らく、お忙しいところ申し訳ありませんでした。・・・そして、有難うございましたとこたえた気がする・・・

その後、しばらくはその前で、タクシーを拾おうとしたが、やはりつかまらないので、更に目的方向に歩き続けた・・・参ったな、これ以上遅れては、今回は諦めざるを得ないと思い始めたときに、その不動産屋の人が電話帳をもって、自転車で追っかけてきてくれ、ここに電話をすれば良いでしょうと番号を示していただき、無事にタクシーを呼ぶことが出来、仕事も無事に終えることが出来た・・・・

何度も、当然、有難うございましたを申し上げたが、タクシーが来ることが確認できた後、直ぐ事務所のほうに自転車で戻られた・・・・本Blogで、一度書いたことがあるが、、Kozyが学生時代、真冬のドイツでヒッチハイクをしている時に、河が全面凍結する、つまり、マイナス20度近くで、悪寒が走り、明らかに高熱がでて、このままでは凍死すると思った時の経験を思い出した・・・・・

その時は、日が沈み始めて更に冷えることが明白であった為、高熱で体の節々が痛む状態でも、遠くに見えるインターチェンジの方向に歩き始めたときに、明らかにこの時間で歩いていては凍死する状況を理解して、拾っていただいて、更に、泊まる予定をしていたユースホステルまで、運んでいただいた経験を思い出した・・・・・

この時は、正に、“捨てる神あれば、拾う神あり”という、昔からの諺を思い出すと同時に、不運なときは必ずあるが、やけにならずに、やれる事をしていれば、どの人間にも良心があるが故に、救ってくれる人が必ずいるとの確信を深めた・・・

ここ最近は、出張で行く場所に、何かに導かれているように、先祖の関係する場所を訪れさせられている・・・神戸に詳しい人は、また、長年すんでいる人は、恐らく全員が知っていると思うが、垂水の海神社、神戸駅の湊川神社、三宮の生田神社というのをご存知だと思う・・・この三つの神社の神主をKozyの祖祖父と祖父の長兄が勤めていたのである・・・・

この三つの神社の名前は父から聞いて知ってはいたが、物心ついてからは一度も訪問をしたことがなかった、最初のきっかけは、神戸駅の近くで仕事を終えて、新神戸より新幹線で帰京しようとしたが、三宮まで行って乗り換えるよりは、当然神戸から直行のバスがあるとと聞いてみたら、バスはないが、湊川神社に沿って6-7分歩けば地下鉄の“大倉山”の駅に着くのでそこから乗り換えなしで新神戸まで直ぐですと教えられた・・・

Kozyは、横浜の東横線の“大倉山”に住んでおり、前から、路線検索などで大倉山という駅が兵庫県にあることは知っていたが、まさか、この駅が湊川神社の最寄り駅だとは、思いもしなかった・・・それゆえ、神の見えざる手に惹かれる様にして、湊川神社を訪れ、一体何時ごろに神主をしていたのかを聞きたくてお伺いしたら、“上月家資料”として、2cm弱のファイルを持ってきていただき、読ませていただくと同時に、コピーを無料で頂いてきた・・・

そして、その後の出張で、意図しないのに、途中に、残りの二つの神社があり、訪れた・・・もともとは、秀吉により上月城を落とされ落城して後は、姫路の兵主神社の神主を約4百年にわたり筆頭社家として神主をしてきており、明治になり神戸に移った。そして、祖祖父が海神社を創設して第一代の神主をして、その長兄が第三代の神主をした後、生田神社そして湊川神社の神主を勤めた・・・・

先週は、下りて寄る時間はなかったが、上月城が在った、上月駅の隣の佐用駅を電車で通り抜けた・・・かってのかの地域を治めていたのかと思いながら景色を見てきた・・・・しかし、たとえ、上月町を訪れても、あまりにも名城であったが為に、秀吉はすべとの石垣まで取り除いた為、何も残っていない。

最近は、この様なこともあり、また、縁戚である慈雲尊者が、最後に神道を勉強したこともあり、Kozy自体も、神道に興味を持ち調べていたが、神道には経典はなく、戒律などもなく、いわば、憲法の前文だけしかない様な宗教であり、どうもはっきりしない・・・しかし、“神道を知らずして、日本人を語るべからず(?)”という本を妻があるところで見つけて、妻が、先行して、興味を持ち、今や、神道にとりかれつつある・・・・

妻が、この本より、抜粋して、書き付けてくれたものを、以下に記します・・・・・

神道とは:

自然に感謝し、人間同士がより豊かに生活できるように考える。 そして、人間の持つ良心に対する全面的な信頼の上に作られた宗教である。

神道の基本:

生命の尊重の上に作られた宗教であり、“産霊”(“むすひ”と読む)問う言う行為を最大の善行とする。

神道の死生観:

死者の霊魂は神となり、子孫を見守り、その繁栄を齎す“産霊”の行為を助ける・・・・・・

以上が妻のメモの内容であるが、正式には、また、学術的には、種々の異論はあると思うが、“産霊”とは、人の良心を信頼して、現世をより良く生きる、そして、子孫を残し、善なる繋がりを現世で求める、このことが自然な繋がりを産み、物事は自然に起きるもの・・・・・・

前段で述べた、“捨てる神”と“拾う神”の喩は、相互作用により、また、自然な揺り戻しにより、全て生起していることを述べていると、Kozyは捉えている・・・・

つまり、前段で述べた話は、起きる人には起きるが、起きない人には起きない話であり、また、常に起きるとは保証は出来ない話しでもあるが、Kozy自体も、人の優しさは、人の弱さがその前にあるが故に、常に生起されるものではないが、常に、人の優しさは息づいており、悪い事をすれば良心の呵責が生起するものである・・・

しかし、人の弱さに配慮できずに、自分自身がカッときて、怒りの感情を生起させた人には、怒りは怒りを呼ぶために、人の優しさという“産霊”という行為は生まれない・・・・このことを称して、先人は感謝の気持ちを忘れないようにと説いていると捉えている・・・

人の弱さを受け入れ理解する為に、先ず人間である自分の弱さを正しく受け入れることから始まる・・・人間は弱いものであり、弱くていいのです、だって、人間だから・・・そして、弱いが故に、助け合うことが、自分自身にも助けになる・・・・人の弱さが深く正しく理解できれば、自ずと感謝の気持ちが生まれるものである・・・・

何百年も神主をしていた家系のDNAは起動してきていると感じる今日この頃です・・・・・

| | Comments (0)

August 24, 2008

自分という幻想から速く卒業しよう・・・

Kozyは全国を飛び回っているが、さすがにお盆のときは、チケットの入手の困難さがあり、飛ばなかったが、18日と19日で早速宮城県の東西南北に分かれた四箇所を仙台を起点にして回ってきた、最低気温が17度まで下がり、朝方は、流石に今の時期にベッドメーキングで毛布入れていないので、あまりの寒さで目が覚めた・・・

幸い風邪は引かなかったが、おでこに大きな吹き出物が出てしまった・・・こんな体験は記憶にない・・・やはり、歳の所為ではないかと・・・Physically, my age is catching me・・・・・

しかし、これで個人的には本州の訪問地の最北端の記録を更新した・・・確かに牛タンは上手かった・・・

また、同時に自己内の今までに経験を通じて構築された自己内の概念との会話が、無意識のうちに促進されている・・・

今回は、今まで、日本については無知に近いが、それでも田んぼの真ん中や信州などにも住んで、また、都会の下町および山の手にも住んだことがあるので、あまり驚くことはないが、松島の自然の奇跡が作り出した造形美には、圧倒された・・・正に地震の多い東北東部の固有性が作り出したものであることは間違いない・・・・

遠浅の松島、その北の方には、断崖絶壁のリアス式海岸・・・断層は、人類を作り出し、自然の造形美を作り出している・・・その影で多くの生命が奪われ、新たな進化を遂げた生命を生み出している・・・人間も偶然が生み出したものでしかない・・・・

むかし、黒沢映画の中で“今度生まれるときは、貝になりたい”という類の有名なせりふを覚えているが、生きることの難しさを謳った映画であるが、当時は感銘を受けたが、今は、“甘えているじゃない”・・・“ふざけるな”といいたい・・・・

人間は、つまり、人間の脳は曖昧性の習得により発達したものであり、この曖昧性の本質と、もう一つの脳の本質である“怠惰性”・・・つまり楽をしたいという気持ちから、発露した言葉が、“私は貝になりたい”ということでしかない・・・また、この時代背景には、大事に大戦の敗戦に伴う価値感の大きなパラダイムシフトがある・・・

今はなき黒沢監督に問いただすことは出来ないが、黒沢監督の発したかったメッセイジは、“用心棒”と同じく、真にたくましく生きているのは農民達であり、その強かさを訴える為に、“私は貝になりたい”という生き方を戒めたかったのではないかと今更ながら、感得する次第である・・・

しかし、この曖昧性と怠惰性の本質が脳を支配しているが、この脳が齎すものの中で最大の問題は、自己という概念であり、あたかも独自の自己が存在しているという幻想を抱かせてしまっていることであるともいい得るのである、しかし、同時に、自己があると思うから悩み苦しむことを通じて、人間は成長してきたとも言いえるのである・・・・

心理学の大罪でも述べたが、自尊感情=Self-Esteem, 自己効力間=Self-Efficacy, 等々の“Self”、日本では“自分らしさ”とか“自分探し”という言葉もあるが、脳科学的に云うと、両親の遺伝子の半分づつを貰っている
子供達が、何故にこれ程までに異なるのかを見るまでもなく、昔から、Nature or Nurture、生得的なものと、養育の仕方および育った環境のどちらに支配されるのかという議論があったが、やはり、Nurtureと言わざるを得ない・・・・・

また、日本人も大きく変わってきている・・・・北島康介のように進化を遂げる人、無差別殺人のように退化していく人に分かれるが、残念ながら、人間の弱さから考えると、約9割の人が退化の方向に流されやすい・・・・・

つまり、自分らしさとは、どのような経験をしてきたかにより、その経験に縛られて生きることを意味する生き方でしかない・・・・また、自分探しとは、自分が過去の経験を通じて、その経験から習得したもの、または、無意識に習得してしまったものは何なのかを突き止める作業であり、その時点での本当の自分を有りの侭に認めて受容することになる・・・認めたくない自分自身を認める作業になる・・・・・

しかし、自分自身というものは種々の異なる経験とより深い経験を通じて変化=成長していくものであり、あるべき表現としては、自分探しでなく、自己の再構築のたびになるのである・・・即ち、自分自身は幾らでも変化=成長できるということを体得または感得することであり、その連続の人生のたびでもある・・・・・

しかし、一旦見にしみこんでしまったものは、なかなか簡単には取れるもではないが故に、良いことはそのままで良いが、悪い習慣的言動パターンは、自分の悪さ加減を強く正確に認識して、対抗する良い言動パターンの習慣化をして修正していくしかない・・・

集団の中でしか生きられない人間は、集団同士、集団と個人、個人と個人のダイナミックな相互作用の中でお互いに影響しあっている存在でしかない・・・しかし、一旦、この世に生を請けた以上は、周りに正のエネルギーをより多く送りたいと思うはずである・・・このことが心の平静と幸福感を生み、脳内のエネルギーが一番増える・・・・・

生態系における最新の進化論は、強い種ではなく、最小のエネルギーで生態系の存続の為に、最大の貢献が出来る種だけが生き残れることを示している・・・この事は、最大の貢献をするエネルギーで長期的に考えると、たとえ少なくとも良いエネルギーをだす、良い継続的な=習慣化されたものが一番累積エネルギーとしては大きいのである・・・つまり、強い種は、それだけ大きなエネルギーを消化する必要があり、所詮は消耗してしまう・・・・

これらを総合すると、“自分=Self”が存在すると思い込み、この幻想に縛られて生きていくことは、エネルギーの浪費を招くことでしかない・・・・しかし、種々の経験が人間の個性を作っていることは間違いなく、その個性は自分だけのものであり、生まれてまるっきり同じ経験をした人はいるわけがないのは、事実である・・・・・

しかし、経験とは社会との相互作用によるものであり、所詮は、全く同じ経験を共有する人はいないが、社会の中の独自個性は持てないのである・・・・

禅宗では、心を無にする修行があると理解しているが、心=情動と捉えた場合、本質的には自分=我というものは存在しない・・・この境地が“無”ではないかと捉えている・・・そして、世の中は全て因縁生起のルールで動いている・・・・だから、生きているのではなく、ただ単に生かされているというのが人間なのである・・・・

難しい言葉かもしれないが“無我”の境地に速く達することが、ことが今の時代は特に求められている・・・・

| | Comments (0)

August 17, 2008

ベイジン・オリンピック・・・雑感

今年のお盆は、お盆というよりも、オリンピックという感じであった。 また、オリンピックのお陰で、TVでは、殆ど終戦に関する特別番組が無くなってしまった・・・こんな年は、生まれて初めての経験でもある・・・・

しかし、今年のメダリストを見ていると、心理学で云うところのGrowth Mind-setの人が、素晴らしい結果を残している・・・つまり、“I can do it”という自分は出来ると信じて目の前の猛練習にもめげることなく頑張ってきた人達である・・・優勝インタビューを聞いていると、特に、欧米人に多く見られた・・・・

エディソンが云っているように、天才は1%の才能と99%の努力で作られるのである・・・・継続的な努力は、知的思考力とサポーターの両方の存在が必要、100%可能性を否定できるものはない・・・サポーターの存在はあなた次第なのである・・・・

また、北島康介等のインタビューを聞いていると、アテネオリンピックで優勝して、その後、不調で国際大会で日本代表にも選ばれなかった、つまり、逆境を経験して再度這い上がってきた人の強さ、心理学ではレジリエンスという力の強さを改めて示してくれた・・・・

トップを極めた人が味わう逆境は、何時でも引退という誘惑が強い、つまり、くだらないプライドに縛られやすい・・・しかし、康介は違った・・・だから、あれだけの完璧な勝利が与えられた・・・・

逆境での強さという意味では、経営では松下幸之助が有名である・・・彼は、大災害にあった町と会わなかった町を比べると、10年後には、必ず大災害にあった町の方が発展している・・・つまり、彼は、逆境に面したときに逃げないばかりか、現実に対峙して、とことん現実からの再学習をして、正に、逆境をバネにして、松下を成長させてきた・・・・・

ふと言葉に出てきたのが、日本人は第二次世界大戦で敗戦を経験して、正に、多くのパラダイムの変換の嵐の中で、そして、生きる為に、現実を受け入れて、日本の奇跡の復興を成し遂げた・・・しかし、厳密に捉えると、日本人のもつミーム(文化の遺伝子)二項同一という、全く異なるものの融合をしてしまう能力に支えられたというべきなのであろう・・・・

しかし、この二項同一とは、想定していなかった、または、全く反対のものでも同一化できることであり、この為には、白紙の心で観察をして含意・本意を正しく理解する能力が前提となる・・・この同一化は、孔子の言う“君子、和して同ぜず、小人は、同じて和せず”の言葉に表される“同ずる”ではなく、正に、“和する”ことなのである・・・・・

“同ずる”とは、異なる意見に盲目的に、または、勇気がないために同化することなのである・・・“和する”とは異なる意見の長所を活かす、つまり、シナジーを求めることなのである・・・・まさに、このシナジーは因縁生起の“縁”の力の一つなのである・・・・・

また、多くの勝者が、支えてくれた人への感謝を口にしているが、現代のスポーツは、既に、あまりにも高度化してきたが故に、仕事と同じで、チーム力が問われる時代になっている・・・決して個人の力だけでは勝てないのである、チーム力とは単純に技術的な専門スタッフだけでなく、精神的な支えがあって、つまり、お互いの信頼感があって機能するのである・・・・

逆境の最大の利点は、孤独な環境を生むことである、そして、孤独な時間が普段は、認められなかった自分の弱さや甘えの体質を垣間見させてくれる・・・生きる強さとは、自分の弱さをどれだけ強く認識できるかに依存する・・・そして、正しく強い、弱さの認識が、種々の人に、弱い部分を支えられていると言うことの気付きをくれるのである・・・・

自分が目指す方向に、どれだけの人が協力して支えてくれているのかが、強く認識できると、その人達の為にも、頑張らなくてはという気持ちになれる・・・・人間の本質は怠惰なものであり、自分の為だけには頑張るのは難しい・・・・

日本の人々を観察していると、相互互恵主義・・・つまり、相手からの恵みがあるとの期待に基づき行動を起こす・・・そして、期待通りでないと、諦めるのはまだましだが、恨んだり嫉んだりして人の所為にしてしまう・・・挙句の果てに、空気が読めないとか、上から目線だという攻撃をしてしまう・・・・

Kozyは理系であるが、社内で、理系の仕事は殆どしていなかったが、エンジニアといえば、変ジニアといわれ、自分でも笑ってしまったが、技術者ですからといえば、奇術者と言われて来たぐらい、世間一般の言う理系らしくないところがあるが、この相互互恵とは、ベクトルで云えば、一方のエネルギーが強すぎればバランスがとれずに消え伏せてしまう・・・

つまり、どれだけ自分が自分に厳しく対応できるエネルギーを持つことが出来るか、このエネルギーと対等の相手の人および人達からのエネルギーで支えられることにより、バランスが取れて存在するものでしかない・・・つまり、自分がすこしのっ努力しかしないで、相手にそれ以上の期待を持ってよいのは、幼児だけなのである・・・・自然の摂理でもある・・理系的説明で恐縮です・・・

因縁生起の6割、つまり、常に、半分以上が直接的な因果関係、つまり、自分が間違っているから起きる問題なのである、たとえ上手くいっているときがあっても、それは長続きはしないのである・・・残念ながら、物事には時期というものもあり、機が熟していないうちの独断専行は、機が熟すまでは報われない・・・・

皆さんの中で、何気なく、“機敏”ということばを使っている人がいると思うが、機を見て敏なるが機敏ということであり、また、臨機応変という言葉があるが、これも機敏と同じ側面を持っている・・・しかし、機敏とは、普段から、普遍なものはないという考えで、また、白紙の心を維持して物事を見て体感する習慣が持てていないと、機は感じることは出来ない・・・・

せめて、本Blogでシリーズ化しているが、“What is changing”をいつも心がけて物事を見る習慣が大事になる・・・Kozyは、独身寮に住み込みで母が寮母をしていたので、中学校ぐらいから日経新聞に触れる機会が多く、大学進学に伴い下宿をするようになり日経新聞を取っていた。・・・日経新聞を読みながら、時代を読み取ることの面白さを覚えた・・・

社会経験を積み重ねるにつれて、また、技術的洞察力が付くようになって、また、経済・社会・政治のメカニズムに対する理解が深まることに伴い、洞察力の正確性が向上してきたと自負している・・・予想が外れたら、何の理解が浅かったのかを常に探求していくことがまた、重要になる・・・

また、同時に、“What is changing”を常に考えていることは、自分も変化しなくてはいけないということを自分に言い聞かせる効果もあり、常に、“What is changing”を考えて観察することをお勧めします・・・・

また、勝者のインタビューで誰も、家族に守られて感謝しているという人はいなく、家族にも支えられてという人達のみである・・・・・

昨今、家族との絆を大事にする人が増えていることは良いが、家族として一番人生の中で、一緒に長く暮らすのは、伴侶であり、結婚して自分で作る伴侶を含めた家族であることを忘れてはならない・・・親が、本当に望むことは、社会人として立派に且つ幸せに暮らせる家族を子供達が持つことなのである・・・そうでないと親は死ねないのである・・・

家族との絆が強くなりすぎると、誰もその間に入れなくなり、この事は、伴侶の候補の人にとっては耐え難いことなのである・・・つまり、何時までも結婚が出来ない・・・何度も云っているが、自分の人生への一番大きな影響力を持っているのは、伴侶なのである・・・だから、ライフ・パートナーというのである・・・・

最後に、海外を飛びまわっている人しか感じないかもしれないが、北京はペキンとは呼ばないようにずいぶん昔から国際的に変わっている、ベイジンと呼ぶのが正しい・・・中国に礼を失している・・・政府もマスコミも反省すべきである・・・・

| | Comments (0)

June 26, 2008

近況報告とアドバイス・・・

先週から、仕事が忙しくなり、ここ一ヶ月で、下関、福岡、神戸、高知、埼玉県の羽生、取手、名古屋、一宮、小牧、そして、これから一週間で松本、諏訪市、淡路島、福山、そして、また神戸に出張する予定である・・・正直言って少し疲れている・・・

これから一年か二年で日本全国の都道府県を飛び回る予定である・・・Kozyは世界の全地域を既に飛び回り、世界の60ヶ国以上は訪問しているが、日本は、国内商売をしていなかったことより、また、若い時は貧乏であったが故に、日本は殆ど知らない・・・

明治政府を築いた人達を見ると、また、今回、下関や高知を訪問して感じるのは、やはり海の魅力である・・・日本人は古来より山神よりも海神の信仰が強く、海から新しい神の恵みが来るとの信仰的なものがあり、海を見て育った人には、何か他の日本人と異なる感性をかじることが多い・・・

しかし、現在の下関や土佐を訪れると、全く静かな街だと感じてしまう・・・昔のように情報があまり入らない時には、好奇心がかき立てられたのかもしれない・・・海の向こうに何があるのか、神の居るところはどんなところであろうか・・・などと情熱が自然に湧いたのかも知れない・・・・

高知県や高知市、つまり、高い知という素晴らしい名前は何時から如何いう理由で名づけられたのか、何ゆえに土佐市でなく、また、土佐県ではないのか、不思議に思えてきた・・・知っておられる方がいれば、教えてください・・・・

Kozyの人生の中でやっと実現した全国めぐりを、これからも楽しんで生きたい・・・・

また、今までは横浜に来て頂くしかお会いできない人達、会えるとは約束は出来ないが、Kozyに会ってみたい人がいれば、メイルをしてください・・・その町または近辺を訪問して、時間が取れそうなときには、お会いしたいと思います・・・・

少し時間が出来たら、また、掘り下げた意見を発信したいと思います・・・しばしご容赦ください・・・

以上、近況報告まで・・・・

最後に一つだけ、この数日毎日何度も“精神力、気力と胆力の構図”を読んでおられる方に申し上げたい・・・言葉だけでは伝えられない。また、言葉だけでは理解が出来ない。・・・これが人間です・・・

何を悩んでおられるかは当然正しい理解はできませんが、何度も読むことの意義は、自分が無意識のうちに自己内に構築したある概念と現在の自分の生き様との乖離が大きくなりすぎていることを意味しており、何度も読む中で言語化されない自己内の概念の言語化を、自分の心と体にたいして対話を通じて出来るということです・・・

しかし、多くの経験を踏まない限りは、25歳までの経験を通じて習得してしまった、自己内に未熟な言葉で取り組んでしまった思考パターンに縛られてしまう・・・まず、体を動かしてそして考える・・・つまり、今までやれなかったことを直ぐできるわけではないので、それに少しでも近づくことで自分がやれるのにやっていなかったことをやることしかないのです・・・

人間は未熟な言語で考えれば考えるほど、恐怖感が芽生え実行できなくなる構造を持っています・・・先ず走り出して走りながら考えることを心がけてください・・・

東京在住の方なので、土日ならばあいていますので、どうしても、もやもやが言語化が出来なければ、カウンセリングをしてあげますので、ご一報ください・・・

以上

| | Comments (0)

May 21, 2008

かくべき汗とは・・・あるべき努力とは・・・

前回のアップロードで次のように述べさしてもらった・・・[情動回路の書き換えは時間が要するのである・・・だから継続が必要になるのである・・・・・・・これがあるべき汗をかくことの本質でもあるのです・・・]・・・・

これだけでは理解しにくいと思うので、もっと深く掘り下げて説明をしたい・・・・

努力をする、汗をかく・・・この前には何の為に何を努力すべきかという考えがあるから努力をする、しかし、多くの人が途中で挫折をしてしまう、・・・・何故だと思いますか・・・・????・・・・

Kozyは努力を目的として捉える人は、苦しみが目的であると同じことであり、人間の構造的な怠惰性より誰でも途中で止めてしまう・・・・努力という行為は手段でしかないのである、つまり、何の為に努力をするのか、この目的の為の手段としてとるべき努力が本当に正しいと思えるのか、また、一体何時に目的は達成されるのか・・・・

また努力の対象は人に押し付けられたり、人がしていることの模倣であったり、つまり、自分自身が決断したものでない努力の対象などは、途中で挫折する・・・・つまり、かくべき汗とは自分自信で考え抜いたものであるべきなのである・・・・

しかし、本Blogで何度の述べているように、人間はある意味でバイアスの塊なのであり、自分で考えたつもりでも、親の価値観や社会的な文脈に縛られており、本当に自分自身で考えるのは難しいことであることを自分自身が強く認識する必要があるのである・・・

しかし、これは自分は自分だと思っていたことの否定でもあり、また、結果としてはそれまで信じていたものを自分から棄却することを意味するのである・・・・・まさに、冷や汗ものなのである・・・・

では、本当に自分自身で考えるとは如何いうことなのか、ここで大事になるのは、ある判断、または、選択をするときに自分自身の判断基準は一体何なのか、そして、この判断基準を一体自分は何時ごろから用いて来たのか、これは、自分の実体験に基づくものなのか、親の言っていたことではないのか、または、ただ単に多数派の意見を妄信しているのではないのか・・・????

この様に、掘り下げて掘り下げて考えて、自己内で言葉に出来ていない自己の納得できる価値観としての概念と本当に一致しているのか、この検証が必要であり、厳密には何時までもこの検証が、世の中が変化していくが故に必要であるが、取り敢えずは、何かに向かって努力をしようと決断するときにはここまで掘り下げて考える・・・つまり、脳に汗をかかせることが大事なのである・・・・・

念の為であるが、日本人には価値観という言葉は、何に大きな価値を置くのかという表層的な理解が成されているが、Kozyに言わせると、日本人には価値観とは、判断基準の序列の総体であると捉えるのが一番善いのではないだろうか・・・自分の判断基準が何なのであるかを知ることにより自分の価値観というものがはっきりしてくる・・・・・

もう一つ、努力が挫折する原因に、人間の持つ脳の構造的な怠惰性の理解が足りない・・・Kozyの口癖に“一石二鳥ではなく何鳥も”というのがある、怠惰性に克つには、中長期の展望能力を磨き、この努力が、何鳥もの利得があることを知的能力を屈指して整理をすべきなのである・・・・・・

この様なプロセスを踏んだ努力の対象は、継続できるのである、または、継続が容易になるのである・・・本当の努力は努力の対象を真摯に掘り下げて思考して前頭葉を使い込むことなのである・・・・また、自己内の概念の適切な言語化の努力でもあり、自己内のバイアスからの開放を上述した思考を繰り返し、新しい取り組みという経験を通じて焼き直しをしていくことでもある・・・

つまり、物事に取り組むにはここまでの事前作業が必要なのであり、これが主体性の本質であり、このための努力対象の選定が、強い覚悟をも醸成するのであるとKozyは捉えている・・・このプロセスを経ていない、努力対象のイージーな選定に基づく努力という行為は、当然の帰結として頓挫する・・・・・・

第一の目、第二の目、そして、第三の目の三つを屈指して考える習慣を付けて欲しい・・・・・

| | Comments (0)

May 18, 2008

近況と雑感・・・ご無沙汰しました・・・

定期読者の皆様には、既に申し上げているように、本業で世界一の企業に59歳という年齢で、正社員としてサラリーマンに復帰したことは申し上げたが、Kozyの業務は、このフィールドにおいて民間企業としては世界No.1の称号を与えられている(官民合わせても世界第2位)最先端の業務を勉強中である・・・・・

この様な部門は日本の大手企業に於いても特殊な業容の企業を除き、相当する部門すらないような、新しい仕事に正社員として採用され取り組んでいる為に、知識の習得と実務の体得に、今でも追われている。非常に知的好奇心を刺激するが、Kozyの脳内も刺激を受け続けている・・・・・

それ故に、アップロードが減ることを申し上げたが、それでも前回のアップロードから、ほぼ三週間もあけてしまい申し訳ありません・・・・予想以上に精神および時間的にアップロードするには負荷が大きかった・・・・

また、就職条件の一つに、禁煙というのがあり、ニコチンパッチを張りながら頑張ってきたので、やっとタバコをすわないことに体が馴染んできた・・・喫煙を始めて45年がたち禁煙をやっと出来た、正確には出来つつある・・・・

新たな問題として、ニコチンパッチを朝起きて寝る前まで張っていると、肌マケをしてしまい赤くなってしまい痒いのである。仕方ないので休日はパッチを張らないことにした、また、会社を終えると直ぐに剥がしている、しかし、タバコを銜えないと落ち着かないと言う習慣は無くなったが、ニコチンガムをかむ機会が増えている

しかし、Kozyの脳は学術用語では既に“ニコチン脳”と呼ばれる脳になっているので、今後もニコチンをニコチンガムを通じて、何時まで必要かは判らないが、ニコチンを摂取していく必要があると考えている・・・

参考までであるが、ニコチンは中毒性があるといわれているが、それは脳内情報伝達物質でももあり、脳内麻薬と呼ばれる代表的な分子の一つでもあるドーパミンの代替機能を持っているからなのである・・・禁煙を試みて、集中的思考が困難になる人は、一時的に伝達物質が急減する為と考えられる・・・また、禁煙中にいらついてしまう人は、快の感情/意欲の低下が原因とも考えられるという仮説も成り立つ・・・

ドーパミンの機能は、主に、運動調節、ホルモン調節、快の感情、意欲、学習などにかかわっている、しかし、ニコチンとは分子構造は明らかに異なるが故に、主に情報伝達物質としての代替機能に限定される、つまり、情報を伝達する時の相手の受容体に、上手く収まる形状的な酷似性に起因している・・・・

つまり、ドーパミン分子が分解したりして生み出す機能には、ニコチンは同じ機能を出すことが出来ない・・・しかし、詳細はまだ解明はされていないので、特にドーパミンの仲介機能は何処でどうなっていくのかは、これから内観を更に意識して影響を見て生きたい・・・・

マスコミ等では、禁煙ブームという大きな流れに反する行為は、大きなリスクを伴う為に取り上げられていないが、間接喫煙は大きな影響があるというのは事実でなく、また、喫煙に伴う最大の弊害である肺気腫とい肺の繊維化の問題は、直接的な因果関係はない。肺気腫の直接原因はビタミンCの不足によるものであるという発表がなされている・・・・・

しかし、喫煙者の肺気腫の発病率が高いのは事実である。つまり、ニコチンは脳への快感と情報伝達を速やかにするが、ほぼ全てのビタミンを破壊するのは事実であり、ビタミンの生成能力が強い人でない限りは、喫煙はビタミン不足に起因する全ての病気の間接的な原因になるのである・・・

Kozyは、30年以上一日に三箱以上吸っていたが、肺気腫には全くなっていなかった。実は、もう一つの多くのビタミンを破壊するコーヒーが大好きで、一日に何倍も常飲している。それが故に30歳の始めのころから、多種類のビタミンを飲むようにしてきている・・・つまり、毎日、ビタミンをタバコとコーヒーで破壊しては補充する生活を送ってきている・・・だから、今も無事に生きていられている・・・・・・・

最近は病院にて初診の時のアンケートでコーヒーの一日あたり何倍飲んでいるかの項目が消えてきているが、かっては飲み物といえば紅茶であり、紅茶は自分でブレンドする習慣があった英国でも、ほんの四十年前ぐらいまでは汎用的に使われていたイディオムである、“This is not my cup of tea”つまり、自分の好みの象徴である自分のブレンドした紅茶ではない=自分の好みではないという表現は、コーヒーが世界を席巻したが故に、現在では英国では死語になってしまっている・・・・

つまり、コーヒーはカフェインが強いといわれているが、カフェイン自体はお茶の方が強いぐらいである、しかし、コーヒーの芳醇な香りはアロマセラピーの効果があり、現代人がストレス社会に住んでいるが故に、個人的には、ストレスを和らげる効果のあるコーヒーが世界で一番飲まれるようになったと捉えている。

多くの人に言いたいのは、人間には生命の恒常性というのが存在している・・・つまり、あるものをプラスにする作用があれば同時にマイナスにするものもある・・・ビタミンを減らす機能に支配されそうであれば、ビタミンを増やすように摂取すべきなのである・・・・

哲学的な洞察であるが、海から陸に上がってきた陸上動物である人間にも、かっての生存領域であった安定した緩衝液でもある海水を体内で未だに維持しようとする、また、刺激を受けることはペーハーでいうと酸性化またはアルカリ化になるが、それも元に戻す作用が、個人的には生命の根源ではないかとすら捉えている・・・・・・

Kozyの人生観には、大きくずれればずれるほどその揺り戻しのエネルギーはよりダイナミックに作用する・・・ただし、これには前提があり、投げやりにならない限り、つまり、いつも現実を直視して、善い方向へのやれることを掘り下げて熟考して、その中で一番善いと思えるものから自分で判断をして実行していく・・・・

このことの実践をすること、諦めずに取り組んでいく、そうすれば必ず道が見えてくる、または、道が開けてくる・・・このことを全ての逆境が、また、俗に言われる挫折の経験が、何度も何度も証明してくれている・・・・・

Kozyのことをあまり知らない人は、Kozyさんは挫折の経験がないと言われることがある、その時に相手を見ていると、人間の生命の恒常性を知らない、無知な人だとも言い得るが、やはり、恐怖に対峙することなく、また、現実に対峙することなく、更に、人間が人間である所以である掘り下げて考えることなく、意味のないプライドや羞恥心や義務感に縛られて、せっかく与えられた貴重な挫折経験を自己成長に昇華できない・・・・・・・

残念ながら、この様な逃避または回避行動も人間の持つ本質でもある、つまり、成長へのマイナスのエネルギー機能なのである。

しかし、同時に成長へのプラスのエネルギー機能も人間は同時に持っているのである・・・つまり、誰でも、覚悟を決めて、能動的な、また、主体的な思考と行動を継続していけば、幾らでも、また、何時までも人間は成長できるのである・・・

つまり、本当に努力するとは如何いうことなのか、本当に恥ずかしいこととは如何いうことなのか、本当に自分の関係する大事な人への恩返しとは如何いうことなのかを自問自答して欲しい・・・そして、如何に自分自身が、親から与えられた価値観に盲目的に囚われているのか、また、社会的な常識や規範に盲目的に囚われているのかを考えて欲しい・・・・・

しかし、これらの思考は言行一致のゴールへの一里塚でしかないことを忘れないでほしい、つまり、頭だけでの整理に基づく理性は、それまでの長い蓄積としての経験から起動する情動との一致がない限り、役に立たないのである・・・つまり、限られ守られた経験からくる情動と、親の過去の時代における経験からくる情動は、それまで経験をしたことのない経験による焼き直しをしない限りあるべき、また、望むべき情動回路の書き換えは出来ない・・・・・

これは個人だけでなく社会および集団の規範にも同じ構造があり、情動回路の書き換えは時間が要するのである・・・だから継続が必要になるのである・・・・・・・これがあるべき汗をかくことの本質でもあるのです・・・

今回はここで切るが、やっと、生活リズムの変更、禁煙、そして、仕事にも馴染んできたので、更なる“本当に努力するとは如何いうことなのか、本当に恥ずかしいこととは如何いうことなのか、本当に自分の関係する大事な人への恩返しとは如何いうことなのか”について掘り下げて近々アップロードをしたい・・・・実は、これこそが、三かき、汗をかき、恥をかき、義理を欠くの更なる掘り下げになるのである・・・・・・・

| | Comments (0)

April 28, 2008

5周年に向けて、近況報告と“奇跡”への考察・・・・

Kozyの誕生日でもある55歳になった4月19日より本Blogを開始して、4周年を迎えることが出来た・・・5周年に向かって“go = 5”となる・・・53歳でサラリーマンを引退を決意して辞めたのであるが、その後の徹底的な検査の結果、8項目の経過観測すべき点が確認され、その時に決断をしていなければ、翌年には死んでいた可能性が大であった・・・奇跡的な判断力であった・・・・

その一年後に心理学の大学院に入学したが、これも奇跡的な出来事であった・・・そして、このBlogを開始した次第である・・・

しかし、大学院においては、産業組織心理学の重鎮の先生および統計解析の重鎮の先生との奇跡的な出会いにより、大きなシナジーが生まれて、両先生とも何十年も大学院で指導してきて、これ程までに、産業組織心理学と最新の統計解析の奇跡的な融合を叶えた修士論文は見たことがないとの言葉を頂いた・・・・

起業後の一年は、心理学の大学院の修士論文の研究にご協力頂いた、企業への更なる貢献による事業収入で、存続が出来たが、次なる顧客の獲得が出来なかった・・・当初より、新規市場を構築していく側面があるが故に、非常に困難なことは理解していたが、終に資金が尽きて、事業としての継続は諦めざるを得なくなった・・・・

つまり、ここでは奇跡を起こすことは出来なかった・・・・しかし、ライフワークとして、これからも取り組んで生きたい・・・・この様にあえて奇跡的という言葉を多用してみると、送辞として言われた言葉として“全ての危機を、Kozyが常人では思いもつかないアイデアと行動力で、乗り切ってくれた”と云われたが、正に、それまでの仕事は奇跡の連続であったと言い換えることが出来る・・・・

しかし、生きていく為に、この年齢でのサラリーマンへの復帰も、これまた非常に困難なことであり、ここ数ヶ月、現実の直視とそれに伴う現実からの再学習、そして、自己内と自己外の求める・求められるものとの再度の対話を通じて、折り合いを付けるという落としどころの模索を行なってみた・・・

何度か、自己破産をすることも考えたが、今まで生きてきた自分自身が一体どうなっていくのかをトコトン見つめて見たくなり、やれることはやりながら、如何、自分が活かされるのか、それとも、神に啓示としての現実から、自己破産に追い込まれるのかを、自分自身でも驚くほど冷静且つ平静な気持ちで、戦略の見直しもしながら様子を見てきたが、友人の方にはご心配をかけてしまったが、また、奇跡的にこの歳で、世界のベストテンの米国系の企業でもあり、ある業界の世界一の企業に、奇跡的に正社員として再就職を果たすことが出来た・・・・

これは、Kozyの今までの実績が、逆に作用して、余りにも素晴らしすぎることより、自分自身の専門分野での再就職は、日系企業においては疎まれることを学習さしていただいた、また、本Blogでも述べているように、年齢と経験を重ねてどんどん成長を続けれる人は、一割にも満たないが故に、理解はできるが、年長者へのステレオタイプの差別は、如何ともし難かった・・・・

その折に、外資系の仕事の求人で、日系企業ではどの大企業にも存在しない仕事の話があり、実績は求められないが適正だけが求められ、応募したところ、米国人二人による英語による最終面接まで漕ぎ着けて採用の運びとなった・・・

実は先々週から、既に業務に就き働いている・・・・・これは、ある意味では、生活維持のための一歩後退というところであるが、初めて取り組む特別な仕事であり、特に脅威の分析能力と対応策の立案能力が要求される仕事であるが故に、神の啓示として、もう一度脅威・恐怖に関して再度整理をしなおすべきと命じられたと捉えている・・・・

つまり、一歩後退というよりは、現在の足場をより充実させて、同時に将来の為にもっと資金力を付けろと命じられたと捉えている・・・なかなか興味のもてる仕事だと捉えている・・・

この様に自分の人生を振り返ってみると、奇跡とか奇跡的という言葉の含意とは、なかなか深く興味深いものであると痛感させられる・・・・・色んな視点で掘り下げることは出来るが、一番的をえていると感じるのは、原因の帰属理論であり、約一年前に、自分自身で総括している“失敗の原因の捉え方・・・達成動機とは・・”(2007年4月7日にポスト)だ思える・・・・

このBlogで最後に締め括っている内容は:

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして、達成動機を高く維持出来ている人は、たとえ失敗をしても、内的問題として捉えて、自分の能力不足または努力不足であった。十分耐えうる能力がなかった、つまり、不安定として捉えて、自己統制が足りなかったとして捉え、再び努力をして、能力を磨けば、次回は上手くいくとの次回への動機付けに繋がる・・・・

一方、失敗に終わったときに、達成動機を維持できなくしている人は、課題が容易であり、運も良かったとしても、自己の能力を不変的なものとして捉え、能力が無かったと捉えてしまう・・・努力不足と捉えない・・・・

平易な言葉にすると、やる気がない、向上心がない人の最大の間違いは、人間の能力は努力次第で、たとえ時間はかかるとしても、限りなく伸びていくということを信じられない・・・・もっと、掘り下げると、努力=苦悩であり、努力したくないという、何もしなくて快楽だけを求めている・・・・・

まさに、このような人は、口では何を言おうと、進化したくない・・・・苦悩は味わいたくないという快楽原則から卒業できていない人たちであり・・・この生き方を続けると、もっとひどい苦悩に陥ることを理解できていない・・・・これが、平和の代償として、今の日本に蔓延していきいる・・・・・

つまり、今の日本で希望が持てないという人は、能力を磨くという、換言すると、自分探しという自分を磨いて自己実現を目指すことは、苦悩体験を積むことにより実現できるものであるという歴然たる事実を、直視しないで、希望が持てないといっていることである・・・・

希望とは、どんなに時間がかかろうとも、人間は努力という苦悩により能力が向上していく事を理解している人が、有資格者として、希望を持てるのである・・・この事は脳科学の知見よりも裏付けられている・・・・

希望の維持能力こそが人間の証なのである・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

常日頃本Blogを読んでくださっている方はお解かりと思うが、希望の維持能力とは、人間の生得的に持っている思考能力の構造的な問題点を良く理解した上で、もっと頭を使い思考能力を上げることである・・・・

そして、五感から入る情報の曖昧性にも起因する、自己内に醸成された概念とその言語化の精緻化を齎す、現実との対峙能力と現実からの再学習能力・・・これは実は苦行であり、胆力が必要になるるのです・・・・・

人間は言語でしか思考できないのです、だから概念の言語化の精緻化が必要になる・・・この目的は自己内で醸成されている概念を如何に正しい言葉で表すことが出来るようにすることです・・・・この意味では、無意識とか潜在意識とは、自己内に醸成されている概念を正しく言語か出来ていないが故に生まれてくるものです・・・・・・

無意識とか潜在意識は、多くは恐怖感や不安からの逃避であったり攻撃行動を起こしますが、言葉の、普段からの精緻化を行なっていない人に対して、それは間違った決断であるとして適正化を目指してくれるという両面を持っています・・・

だから、先人は相手を知ることより自分を知ることの方が難しいが、自分を知ることがより重要であるとの趣旨の言葉を残してくれている・・・・ここで大事になるのが、自分自身の真の姿を見つめるという内観すること、そして、自分自身を事実に基づいて反省するという意味の内省すること・・・・

Kozyは今まで奇跡とか奇跡的という言葉は50歳を過ぎるまでは殆ど使ったことはなかった。あくまで可能性を追求してきただけであり、その都度の関係者の力動的な力関係を直視して分析をして、あるべき姿に如何に近づいていくかを模索してきたに過ぎない・・・・・力動的な相互作用に依存するが故に、普遍なものは存在しない、だからいつも可能性はあると捉えてきた・・・

釈迦が説くように、因縁生起が根本にあると強く感得しているが、釈迦は、同時に間接的な因果関係である“縁起”は常人にはなかなか理解できないといっているが、自我の存在の幻想に囚われて、不適切な恐怖感に囚われていては、“縁起”の構造は理解できないであろう・・・・つまり、見えてこないのである・・・

しかし、“笑うかどには福来り”という言葉に代表されるように、多くの人が、見えない“縁起”の存在と機能は感じていると確信してます・・・これが、自分の発する第一印象でもあり、生きる姿勢として、“明るく、元気で、希望を持って頑張る”を実践していくことが、“縁起”を増やしていくことは間違いないのではないでしょうか・・・・・

新しい仕事と生活時間のスライドに馴染むまでは、Blogを書く時間がとり難くなっています、アップロードは週一ぐらいにならざるを得ない・・・・ご了承ください・・・

以上近況報告と奇跡への考察でした・・・・

| | Comments (0)

March 16, 2008

[実録・連合赤軍 あさま山荘への道程]・・・追加したいこと・・・

本日日曜日に、[実録・連合赤軍 あさま山荘への道程]を見てきた・・・・かってはピンク映画界の奇才といわれた、若松孝二監督が私費を2億円投じて、何故当時の若者が立ち上がったのかを映像に残しておきたいとの思いで、71歳になるにも拘らず取り組んだ作品と聞いては、同時代を生きてきた人間として、本当に正しく描かれているのかを確認したくて、見に行ってきた・・・・また、微力ながら興行収支に貢献したいと思った次第・・・・

約三分の一づつ、団塊世代、現代の若者、そして、この二つの世代の中間層であった・・・大学生などがグループで見に来ているのには、少し驚いたが、団塊の世代=全共闘世代=連合赤軍世代というステレオタイプ的な理解で、団塊の世代以外の人達は見に来ていたのではと感じた・・・・

映画がシーンが終わっても、直ぐ立つ人は限られており、映像が消えるまで見ている人が殆どであった・・・実はこれは大正解で、あさま山荘事件の後の、連合赤軍関係の動きが説明されていた・・・見に行かれた人は最後まで見て欲しい・・・・

さて、鑑賞後の感想として、良かったのは、みんなが勇気がなかったのが原因であると明確なメッセイジを送っている・・・団塊の世代の中では、連合赤軍の人達は1%にも満たない層であるが、現在の若者世代では、この勇気を持たない人達が、もっともっと多いと思うと、今は非常に危険な社会になっているとの危惧を強めて帰途に着いた・・・・

残念だったのは、途中で、組織には属さない全共闘運動が生まれてきたとのナレーターの発言は成されていたが、学生の多数派はこの全共闘として、学生運動に参画していた・・・赤軍派とは一線を記していることは、見られた人達はよく理解して欲しい・・・また、全共闘に参加した人達は団塊の世代では、せいぜい一割ぐらいであったはずである・・・このぐらいは、どこかのナレーションで述べて欲しかった・・・・

個人的にはこの全共闘運動の世代の人達は善い意味での個人主義世代の日本での大量の発現だと捉えている・・・

ナレーションでは、60年安保闘争の反省から、組織に属さない全共闘運動との説明はあったが、赤軍も革命派左派(京浜共闘?)の人達は、セクトに属したが故に、セクトの存続、セクトの中央司令部の意見に絶対服従という集団の愚かさに縛られていったと言う点にはもっと明確に触れて欲しかった・・・・

また、共産主義の原理主義者が連合赤軍という位置づけであったが、確かに、既に歴史が証明するように、共産主義は人間全員が、正に、“勇気”をもった人に育つことが前提でしか機能しない。つまり、現実的にはありえない・・・・・総括・自己批判という名の下に、何人もの人が殺されていったのであるが、それはおかしいと勇気を持って言ったのは一割にも満たない未熟人間の集団であった・・・今の大企業と酷似している・・・・

しかし、リーダーの資質が、“勇気”のある人であれば、この様な悲惨なことが生まれなかったのも事実であろう・・・本Blogでは、リーダーに最低限求められる資質は“胆力”であることを発信しているが、9割以上が“勇気”のない集団では、たとえ全員での投票制にしていても、求められるべきリーダーは選択されないであろう事を示唆している・・・馬鹿社長は馬鹿社員が作る事と同じなのである・・・・

もう一つ云って欲しかったこととして、米国の学生運動に関して何も述べられていなかった・・・当時の学生は、IVYとかトラッドというファッションをかっこいいと思っており、つまり、アメリカの学生のライフスタイルに憧れを持っていた・・・全共闘運動世代は、米国の学生運動に喚起された部分がある・・・

社学同(ブント)の関西派と関東派の分派闘争は描かれていたが、赤軍の中心はこの関西派であり、関東派は、時代のファッションとして、参画していた人も多かったと捉えている・・・・

作者は忘れたが、“Don't trust over 30”という本があり、米国の学生運動に影響を与えた、また、ビートルズのジョン・レノンが米国の学生運動を支持したのも大きな影響を与えていた・・・つまり、学生運動をする=かっこいいという社会的な文脈があったのである・・・・・

25歳以下、つまり、学生には脳内に、中長期の展望を持って判断する回路が出来ていないことが、今では判明しているが、勇気のない人間が、かっこいいとう社会的な流行という文脈に縛られて、行動をする、何時の時代も、連合赤軍と同じ結末が来る・・・・・現代はもっと危機的な状況の中にいると危惧している・・・・・

“30歳以上の人間は信頼するな”と言うメッセイジは、当時の日米の学生に、学生よ、学生が故に、立ち上がれというメッセイジではあるが、当時の30歳というシンボリックな意味は、働いていて結婚をしていて子供も出来た人達を意味しており、それだけの責任という重みを背負った人達には期待できないということと、期待することが酷であるとの二つの意味を持っている・・・

それが故に、Kozyは学生運動への参加は学生としての必須科目であり、社会に出たら辞めるべしと当時公言していた・・・背中に重い荷物を背負うともう取り組めない・・・せめて学生のときは遣るべし・・・今もそう思っている・・・・

映画の最後のテロップを見ていると、若松監督は多くの連合赤軍の人達にヒアリングをして脚本を作ったと見られるが、1%にも満たない人達の意見を基に脚本を書くこと自体が問題がある・・・そして、全共闘の学生達は、卒業後見事に切り替えていることへの焦燥感が、極端な共産主義の原理主義に走らせた側面もあるのである・・・文化革命の現像が破綻しても、その変化を受けて切り替えることの出来ない、弱い人間が多数派を占める集団を作っていった・・・・

今でも証拠はないが、ジョン・レノンは当時の体制派の命を受けて殺されたと見ている・・・それほど、確かに、米国へのビザの発給を止めたり、目の上のたんこぶのような存在がジョン・レノンであった・・・・“サークル・ゲーム”また“イチゴ白書”などの映画は、米国の学生運動をモチーフにしたものであり、その中で、“Power to the people”などが謳われている・・・・

人間は、脳の曖昧性の取得により大脳新皮質を発達させてきたが、原始の爬虫類の脳とも言われる脳幹や原始哺乳類の脳とも言われる辺縁系の三つが密に相互に繋がっているが故に、曖昧性を不安という恐怖として捉える構造的な問題があると見ている、また、哺乳類は、集団でしか生きられないがために、集団の明確な基本を求める構造的な問題がある・・・・

また、一旦は信じて走り出すと、切り替えは苦悩を伴うが故に、固執する構造的な問題もある・・・つまり、幻想的な、また、妄想的な信条に囚われやすい構造を持っている・・・特に経験が未熟な若い時はこの傾向が顕著である・・・・

恐らく、連合赤軍の人達も“Don't trust over 30”の本は知っていたと思うが、われわれが戦うのだという信念がもう一つの理解を生まなかった・・・また、連合赤軍の人達をトロツキストと自分達でも言っているが、トロツキーの考えは永続革命論であるが、これは、確かに一つの手段としては体制派の敵の暗殺も一つの前進ではあるが、真意は、革命とは日々の活動により賛同者を少しづつ増やし、あるときの賛同者の数が体制をひっくり返す力を持つことが革命であり、短期にはこの急激な変化はおきないと説いているのである・・・・・

最後に、一連のリンチ殺人の首謀者である、森恒夫は獄中で自殺したが、これは生きることが辛過ぎたと理解できるが、一番残忍であった永田洋子は、今でも獄中で生きているとのテロップがあったが、良くも悪くも女は図太く強いものであると痛感した・・・・

また、あさま山荘で捕まった加藤三兄弟の末弟は未成年であったがために、罪は問われなかったが、25歳以前に強烈な苦悩体験をして、真の優しさは、勇気がないと発揮できないという学習をしたので、プライバシーの関係で公表はされていなかったが、テレビドラマの“斉藤さん”の主人公のように、ここで小さな勇気を振り絞らないと、あのリンチ殺人の様な社会になる事を恐れ、しっかし、勇気を持った人間に成長していると確信する・・・・

初めのときは小さな勇気の発揮でよいのである・・・この小さな勇気を発揮しないともっと大きな勇気が必要になる・・・これが人間社会の構造的な特徴なのである・・・・このことを忘れないでほしい・・・・

| | Comments (0)

March 15, 2008

歳の差のある結婚と結婚への考察・・・・

芸能界の結婚を見ていると、歳の差が10歳以上は全く普通になり、20歳前後の歳の差のある結婚も今や珍しくはない・・・また、普通のサラリーマンの中でも、20歳近く離れた結婚も珍しくはない・・・

実はKozyも妻とは9歳離れている・・・結婚は、ちょうど“ルビーの指輪”がはやってきた当時に知り合い結婚したが、寺尾明が30歳以上でも若い人の支持を得られた、新しい時代の始まりのときであり、Kozyが結婚した当時は、それでも周りから、ずるいとか、犯罪行為だと言われたものである・・・・

個人的には、成熟した大人社会でもあった欧米では、男女とも30代のころが一番もてる、または、評価が高いのが普通であったので、世界の中で、20代の人がブランド品を買っている日本の社会に違和感を持っていた・・・自分で稼いで余裕の出た30代が買うべきものである・・・・と捉えていた・・・・

また、最近は40前後の女性が若い男性との結婚をすることも珍しくない時代にもなってきている・・・・

当時と今では何が変わっているのかを考えてみると、次のようなことが頭に浮かんでくる・・・

* 男女とも、若さを維持できている・・・女性の高齢出産年齢もどんどん上がってきている・・・・男性の数えの42歳の肉体的低下を意味する厄年も、個人差はあるが10歳前後遅れてきている・・・男女ともに最初の結婚年齢の上限が上がってきている・・・・

* 統合失調症=(脆弱性)X(ストレス頻度)という捉え方が出来るが、競争経験を積ましてもらえない、また、平和の代償として、若いときの苦労をさせて貰えなかった世代は、論理的には脆弱性の増加を生んでいる、そして、更に悪いことに、技術革新のスピードが人類史上最速になっている社会では価値観の変化のスピードは増大するが故に、今の社会はストレス頻度が人類史上最高レベルである・・・精神疾患が増えたのは、それが故に、産業革命以後なのである・・・・

このことは、人間の成長、つまり、結婚が可能になるレベルまでの熟成期が遅れることを意味している・・・この点では出来ちゃった結婚が増えることは理にかなっている・・・・

* 金銭的な結婚可能年齢も今の時代は後れているとも捉えられる・・・勿論、階層化が進んだことにより、富裕層はこの点では問題はない・・・・

* 少子化に関連して、子供が少ないが故に、親の愛情をより多く受けている人が増えてきている・・・この事は、女性のファザコンの度合いを増やし、男性のマザコンの度合いも上げている・・・・

* また、ストレス社会になってきている事は、結婚への大きなドライバーになる性欲の減退を促しており、また、環境ホルモンの影響も考えられる・・・・・

一方、変わらないこととしては、男女ともに25歳を過ぎると、中長期の展望を織り込んでリスク=恐怖を判断する回路が出来るが、それは、25歳までの種々の知識と経験に縛られるた判断基準であり、また、曖昧性の高いものでもあり、不適切な恐怖への判断基準に縛られて、新しい経験という結婚生活に対して、躊躇の度合いが大きくなる・・・・これは既に科学的な事実でもある・・・

良くも悪くも、殆どの家庭では最終的には妻が主導権を取るが故に、昔は、女性の結婚適齢期は25歳までといわれてきた・・・つまり、25歳を過ぎると行動変容がより難しくなるがために、その前に結婚をするのが良いとされていた・・・男性は収入面では25歳以上である必要があったために、二十代後半が適齢期であった・・・

今年、“あばあさん仮説”が確認されたとのポストをしたが、女性の閉経の年齢は、変化は見られない・・・しかし、寿命は伸びているので問題はないかもしれないが、女性の場合は、出産直前・直後は母親のサポートは、必要な問題である・・・しかし、親が親の介護という老老介護の時代になってきており、親の親が健在な女性は早めの結婚が望ましい・・・・

以上の点を総合的に考察すると、男性も女性も精神的な結婚への適齢期が遅れてきている・・・また、大きな歳の差があると年長者が金銭的にも精神的にも主導権を握れる・・・・一方、若くして年長者と結婚する人は、統合失調症の苦しみから安らぎを求めて、また、依存したくて結婚をする人達との必然的な結びつきが生まれてきているのではないだろうか・・・・

しかし、これらのカップルに対して危惧する点がある・・・・

若くして年長者と結婚する人は、依存したくて結婚をする、更に、人生のパートナーに対して、男性は母親を求め、女性は父親を求める傾向を最近強く感じざるを得ない・・・結婚とは健全なる共依存関係を求めるものであるが、パートナーとは運命共同体の関係を意味する言葉なのである・・・ところが夫と父親として依存される、または、妻と母親として依存される片方だけが大きく依存する関係は、依存される方が消耗してしまう・・・・

この様な関係は、正に、依存される方から見れば、可愛さあまって憎さ百倍となる最悪な結果への道を進むことでしかない、また、依存する方から見れば、相手は正に看護対象になったときには、依存できなくなり逃げてしまう・・・これも最悪である・・・

また、若い人と結婚する年長者は、個人の価値観が固まりすぎているが故に、若い夫・妻が成長するにしたがい変化への適応力が求められるが、これは不可能とは云わないが非常に難しいことであり、現実的は不可能であろう・・・

また、それまでの一人の生活に馴染み過ぎているので、“何もしなくてもいいよ”などという言葉を、芸能界のカップルを見ていると、耳にするが、この意味することは、俺は変わらない/お前は好きなようにしろ・・・・これは、一切依存する気もないが、干渉もするなという人間関係を求めている側面があるのである・・・・・

本Blogでは、何度も結婚は人生で一番大事な選択であり、誰と結婚するかが人生に一番おきな影響を与える・・・・といっているが、歳の差のある結婚を決断する前にそれぞれが次の点を自問自答すべきではないだろうか・・・・

* 若い女性の場合(25歳以下)
自分は相手に父親の代理を求めていないか???・・・自分は相手に依存することだけを求めていないか???・・・自分は相手が求める点を理解しているか、その点で本当に貢献できるか???・・・相手の有りの侭を愛しているのか???・・・

* 若い男性の場合(25歳以下)
自分は相手に母親の代理を求めていないか???・・・自分は相手に依存することだけを求めていないか???・・・自分は相手の求める点を理解しているのか、その点で本当に貢献できるのか???・・・相手の有りの侭を愛しているのか???・・・

* 年長者の男性・女性の場合
自分は相手に対して、何を求めているのか、相手はこれから成長という変化を遂げていくが、相手が、自分が求めるものを与えてくれることにより、相手も成長を続け、幸せになれるのか???・・・・

結婚はお互いの存在がお互いの成長を促すと確信を持てることである、しかし、法律的には継続的な性交渉が義務になる、よって、お互いに一生抱きたい/抱かれたいと思える事が前提になる契約でもあるのです・・・お互いに遵守できますか???・・・

また、子供達に一番大事なことは、両親が愛しあっていることです・・・この履行が契約で求められている・・・この本質は夫婦という営みがお互いを成長させる人生において一番大事な社会活動であるということが本質なのです・・・・自己成長というのは社会的な暗黙の契約義務なのです・・・・

自己成長の本質は、自分の望む方向への変化を遂げることであり、この変化は、男女の構造的な違いを受容して、また、自分自身が気がついていない本当の自分の悪さや弱さを正しく受容することでもあり、これは苦行でもある・・・だから、既婚者からは愚痴を聞くことが多いのである・・・

この苦行に耐えられる、また、支えてくれる相手の存在が必要であり、同時にその苦行を乗り越える為に、心のエネルギーの充電をしてくれる楽しい存在である相手が、正に、ライフ・パートナーと言うことだと捉えています・・・・夫婦の性交渉は、心のエネルギーの充電に一番寄与している・・・・

セックスレス夫婦という関係は、相手に父親・母親の代理を求めていれば、近親相姦に近い罪悪感を無意識のうちに感じてしまうケースも想定されます・・・・・

夫婦間の愛情とは、それが故に、アンビバレントな憎悪が入ってくることは、決して間違いではない・・・それでも一緒にいたいと思えることが、相性が良いということでもあるのです・・・・人間は成長と後退を繰り返しながら成長をしていく・・・

| | Comments (0)

February 27, 2008

ミラーニューロンからの探索の旅・・・・

人間不信について発信した後、いろいろ頭の中をめぐる事がある・・・人間への深い理解が、感得できてないが故に、愚かである人間、自分自身を含めて愚かなる人間へ慈悲と慈愛の心が生まれていない・・・むしろ、平和の代償として、困難になってきている・・・慈悲とは、英語ではHumanityでもあり、人間であることでもある・・・また、慈愛は、英語でLoveでよいと思うが、慈愛の愛は、白川静は、本来の意味は“後に残る人たちを、惜しみ心配をし、振り向く人の姿を現したもの”・・・自愛という自分を愛する漢字などは本来はないのである・・・・

つまり、慈悲と慈愛の意味することは、人間の良い側面を表す“愛他性・利他性”を意味している・・・・しかし、これは人間への深い理解を学習していくことにより備わってくる・・・・

しかし、情報だけは過剰と言ってよいほど流れている・・・それが故に、何が正しいのかが判らない・・・確かに、良い商品・サービスを探求するには便利だが、知的理解能力を上げるには、逆に、難しくなってきている・・・自分で考える面倒さより、怠惰性に流される・・・

つまり、種々の領域で変化が起きてきているが、俗に言うところの専門家の意見は、その分野での視点に基づく知見であり、人間が必要とする学際的な全体からの視点での意見が少ないが故に、間違った解釈や方向性を与えてしまう・・・また、マスコミは、恐怖感をあおる論調、または、受け入れやすく人気がある論調の両極に偏る特性を持っている・・・・これでは、多くの人は悩んでしまうであろう・・・

Kozyは、ずっと海外部門の仕事をしてきたが、日本人には、出来るだけ日本語だけで説明する努力をしてきた・・・英語をそのまま使用すると、その言葉の概念が、たとえ日本語であっても正しい概念の共有化が難しいのに、もっと誤解を生みやすいからである・・・

出来るだけ平易な言葉での発信をしているつもりでいたが、最近の自分のBlogを見ると、専門家への発信意識が強い場合は、どうしても、専門用語のほうが概念の誤解を生みにくい側面もあり、それ故、仕方ない部分があるが、今後も気をつけて生きたい・・・・・・

さて、話を戻すが、Kozy自体は、広く且つ深く取り組む中で、既に、説明もせずに使ってしまっていた「ミラーニューロン」の説明と、この発見がどのようなことを示唆している、正確には、示唆していると考えられえるのか・・・すごく広い展開性を秘めており、人間不信の払拭に大きく論理的に貢献する可能性を秘めている・・・・

先ずは、脳科学者の茂木健一郎の言葉を借りると・・・・ここ十年の脳科学における最大の発見と言えば、何と言っても大脳皮質の前頭葉で見つかった「ミラーニューロン」である。最初は猿の脳から報告されたが、その後、人間の脳でも対応する部位が発見された。ミラーニューロンは、その名前が示唆するように、自分の行為と他人の行為を鏡に映したように表現する。例えば、自分が手を伸ばして何かを掴む時にも、他人が同じ行為をするのを見ている時にも活動するのである。・・・・・

ミラーニューロンが注目されるのは、それが、「他人の心を読み取る」という脳の大切な機能を支えているのではないかと推測されるからである。人間の本質は、他人とコミュニケーションをする社会的知性に顕れる。ミラーニューロンは、他人と柔軟にコミュニケーションする人間の驚くべき能力を支えていると考えられるのである。・・・・のように説明している・・・・

更に続けて・・・・ところで、一時期の日本では、戦後の文化風土と絡めて「個人主義の行き過ぎ」を批判する風潮があった。個性を主張するのもいいが、他人と協調することも大切だとする論者が散見された。個性の発揮と他人との協調が相容れないとするのは、脳科学の視点から見れば間違いである。・・・・

ミラーニューロンの発見に象徴されるように、個性は、むしろ他人との関係性においてこそ磨かれる。他人の心という鏡に映った姿を通して、私たちは自分の本性を知るのである。激化する国際競争の時代、日本人が個性なしでやっていけるはずがない。個性と協調性は矛盾するという科学的に間違った思いこみは捨て、脳の中の鏡で大いに個性を磨こうではないか。・・・このように結んでおられる(日本経済新聞2005年7月28日夕刊掲載)・・・・・

茂木さんは、クオリアを信望している人であり、個人の中にクオリアが存在していると捉えている学派の人である・・・念の為に、クオリア(英:複数形 Qualia、単数形 Quale)とは、心的生活のうち、内観によって知られうる意識の現象的側面(現象的意識)のこと、またはそれを構成する個々の質感のこと。感覚質(かんかくしつ)とも訳される。・・・・

一方、ニューミステリアンの立場をとる人は、クオリアは現在の物理学に含まれておらず、ハードプロブレムは依然として残っているが、私達人間にはこの問題は解くことは出来ないだろう、と考える立場。代表的な論者にコリン・マッギン、スティーブン・ピンカーなどがいる。人間という種が、その先天的な脳構造に由来して認知能力に関してある一定の限界を持っており、その外側にある物事が人間には理解できない、という認知的閉鎖(英:Cognitive closure)の概念をその基軸に置く。

尚、“ハードプロブレム”とは、具体的には:
1.物質としての脳の情報処理過程に付随する現象的意識やクオリアというのは、そもそも一体何なのか?
2.そしてこれら現象的意識やクオリアは、現在の物理学が提示するモデルの、どこに位置づけられるのか?
ハードプロブレムはこれからの科学、とりわけ物理学が、真剣に向き合っていかなければならない問題として、心の哲学(心身問題や自由意志の問題を議論する哲学の一分科)を中心にその詳細が議論されている。

茂木さんは、クオリア信望派が故に、ミラーニューロンのもつ更なる展開性が見えていないと危惧する・・・・クオリアは、意識=こころが自己内に独自にあるという人類の長年の伝統的な捉え方に縛られている・・・これを意識のイージー・プロブレム(easy problem)と呼ばれている・・・・

一方、脳の発達に関してポール・マクリーンは、「脳の三位一体構造」という考え方を提示した。・・・脳を進化の順に、爬虫類の脳(脳幹)、前期哺乳類の脳(辺縁系)、新哺乳類の脳(大脳新皮質)と3層に分けたものである。・・・・

脳幹は主にホルモン分泌や自律神経の働きに関係し、健康という面から見ると重要な脳の組織であるということが、最近の脳科学で明らかになってきている。・・・・ここは女性の方が、種族保存の原理が働いていると推測されるが、圧倒的に男性よりも強いのである・・・

辺縁系は、感情や情動として情報を処理している。性、飢餓、恐怖、攻撃などの反応を司っている。この辺は抑圧された無意識の側面と関係してくるところである・・・・・ここも女性が男性よりも強いのである・・・女性の方が感情的になりやすい所以でもあるが、同時に、女性の口による攻撃能力の差の原因でもある。・・・しかし、恐怖には男性より弱い側面を持っている・・・だが生きる強さは女性が勝っている・・・

新皮質は、「言語や論理などのシンボル・イメージが投影される巨大な神経スクリーンの役割を果たす。新皮質は、情報を自己反射的な段階の心に特有の方法で処理する場所である」・・・ここで始めて男性の方が優れている・・・ここに理性と知性に基づく意識・意思に深く関係する前頭葉がある・・・・そして、ミラーニューロンはここに存在していた・・・・

また、UCLA (カリフォルニア大学ロサンジェルス校) で医学や心理学を扱っているいくつかの研究機関が協力し、自閉症児の脳内でミラー・ニューロンがどう作用しているかを調べました。いわゆる高機能と呼ばれる種類の自閉症児10人と、定型発達 (普通) の子どもたち10人を対象に、怒り・恐れ・喜び・悲しみなどの感情を想起させる写真を観察させ、模倣をさせつつ、そのときの脳の活動状況をfMRI (functional Magnetic Resonance Imaging) という装置で調べました。

結果として分かったのは、自閉症児のばあい、ミラー・ニューロンの中枢部と考えられている下前頭回の弁蓋部という箇所での活動が、全くと言っていいほど見られなかったことです。特に、自閉症状の度合いが強い子ほど、ミラー・ニューロンは不活発でした。・・・・又、自閉症児のばあい、脳内で感情を司る辺縁系の活動も低下していました。

一方、視覚や顔の筋肉を動かす箇所はfMRIで見ても正常に活動していました。・・・・・

心理学の分野にアフォーダンスまたは生態心理学と言う分野だあり、こころは自分と対象との間の相互作用でおきている、もっと端的にいうと、ある対象に反応しているだけであるという考え方が裏にある・・・つまり、こころやクオリアというのは、人類の長年の伝統的な捉え方とう産物でしかないのではないかとの見方をしている・・・・・

ミラーニューロンは、むしろ、この生態心理学の考え方を支持していく可能性が高いとも言いえるのである・・・・

脳の三位一体というのは、脳の三つの部分が緊密につながっていることであり、自閉症でない人間は、感情・恐怖感の情動は起動して活発化していると言うことであり、幼児期は単純に物まねをして先ず経験をして学んでいくが、この学ぶと言う中に、恐怖感と言う情動体験の学習をしている・・・・・

何に対して恐怖感と言う情動がどれだけ強いかは、経験の違いから来る個体差があり、また、茂木先生の言葉を借りると人間の脳は曖昧性の取得に伴い発達してきており、曖昧性に起因する情動反応の違いも生まれてくる・・・・Kozyは、生得的な生命の危機から守る為の恐怖感と言う情動は遺伝子を通じて存在はしていると思うが、複雑化した人間社会の文脈が生み出す情動は経験学習により醸成されていると捉えている・・・・・

つまり、実験内容を詳しく精査する必要はあるが、ミラーニューロンは、一般的にみんなが恐怖を覚える対象をもとに実験が為されたと捉えている・・・・つまり、生得的な恐怖感と経験を通じて学んだ恐怖感は別個のものであり、誰も人の心を正確に読めないように、ミラーニューロンが、他人の感情を読めるとまでは、言えないと捉えるのが正しいのではないか・・・・・

つまり、広く深い恐怖感の経験をしている人だけが、同じような経験に対して、曖昧性は残るが共感できるだけである・・・・

一方、複雑系の科学の大元でもある生態系の科学視点、そして、進化適応の視点で見ると、生き残れるのは取り巻く生態系の維持・向上に対して最小のエネルギーで最大の貢献をする主だけが残るのである・・・この貢献は直接と間接の貢献の総量を意味する・・・・ある実験では、環境温度を5度あげると種々の変遷を繰り返しながら収束して新たな生態系が出来るが、最初から残った種だけを選んで変化を観察するとまた異なる新たな生態系に収束するのである・・・・・

人間社会という生態系に置き換えて捉えると、技術革新のスピードが、人類史上で一番速い中では、普遍なものはないのである・・・

生物というのは、瞬時に=最小のエネルギーで最大の貢献が出来なければ淘汰されていく・・・これが生態系の摂理なのである・・・・・この摂理が人間の脳でも機能している・・・言い換えると、人間の脳の本質の一つに怠惰性があるのである・・・楽して最大の効果を挙げたい・・・・

この話を聞いて喜ぶ人は多いが、だから人間は苦しむのである・・・・だから人間として賢く生きる為には、如何にして、知的洞察力を屈指して一石二鳥を何鳥にまで増やせるか考えることがこの怠惰性に勝つ手段でもある・・・・

また、この瞬時の判断をKozyは“自動脳”と名づけているが、曖昧性に基づき処理されたインプット情報とこの曖昧な情報を曖昧に処理された曖昧な瞬時の判断を行なっている・・・・それが故に、判断の後と判断の前に自己内に構成された概念との不一致が生まれ、もやもやする・・・これを人間は“こころ”という言葉で捉えている・・・Kozyの強い仮説である・・・また、人間の本質でもある・・・・

つまり、このこころ、または、自我と捉えることも出来るが、種々の対象に対して相互作用を起こしているものでしかない・・・この相互作用を起こす大事な機能の一つが正に“ミラーニューロン”ではないか、また、釈迦が達した悟りの“諸法無我”および“諸行無常”、そして、“因縁生起”の三つはこのことを意味しており、釈迦はここまで感得したと捉えている・・・・

爬虫類にしても、人間以外の哺乳類にしても、これらの曖昧性がないが故に、対象の範囲は人間に比べるとあまりにも精米が、曖昧性から来る悩みはないのである・・・植物も然りなのである・・・・・

そして、猿真似の時代を修了した成人としての人間は、これらの曖昧性をより精緻化される経験を与える、また、精緻化の能力も向上するためにミラーニューロンが存在していると捉えることも出来るのである・・・・ミラーニューロンは愛他性を熟成するドライバーなのかもしれない・・・・

以上が、Kozyの探索の旅でした・・・また、改めて旅をしてみたい・・・・

| | Comments (0)

February 19, 2008

受信者責任文化と発信者責任文化の視点からの日本人への示唆・・・

ここ一週間で日本人3名のカウンセリングを行った・・・最近のKozyの頭に刻み込まれた“受信者責任文化”と“発信者責任文化”の言葉のお陰で、日本人に対するカウンセリングのスタンスと欧米人に対するカウンセリングのスタンスにおいては、カウンセラーは切り替えが必要であるとの確信を持つようになった・・・・

つまり、欧米で発達したカウンセリングの理論の適用は、盲目的に行ってはならないということである・・・・

日本文化は確かに受信者責任文化ということが出来るが、この文脈の中で育つということは、日本人は誰もが無意識のうちに、次のようなトレーニングを十分積んできていることを意味しており、これらの能力は既に強すぎる為に、この能力とのバランスをとる為に必要な能力を増強することを意識して、カウンセリングを進めるべきである・・・・

1.欧米の心理学の実験では、自分の価値観の中で、両親の価値観の継承している部分が8割以上と報告されているが、日本人の場合は、この割合が高いと感じる・・・しかし、もっと大事なポイントは、両親より継承した価値観にとらわれる強さが欧米人と比べると、あまりにも大きい・・・・

何百年も前なら、両親から継承した価値観の多くは、技術革新の速度が遅かったが故に、技術革新が齎す生活の変化が非常に少ないの社会的に通用するものが多くあったと言い得るであろう・・・しかし、人類史上、技術革新のスピードが最大になっている現代社会においては、通用するものが大きく減ってきている・・・・・

念の為であるが、両親の価値観の継承をすること自体は、生れ落ちて最初に所属する集団である家庭の二人のリーダーシップは強いものであり、また、家庭という集団の規範にもなるが故に、両親の価値観を自己の内部に取り込んでいく・・・・・・・

また、両親に嫌われては生きていかれない子供としては、両親に好かれること、即ち、家庭内の規範にそう適応行動であり、自然なことである・・・・

しかし、典型的な例が、日本では“川”の字スタイルで親子で寝ることは普通ではあるが、これは、欧米の哲学では生まれた時から、独立した個人として扱うが為に、ベットのみならず寝室も別になるのと異なり、両親への愛着感情を強くなりすぎるレベルまでにしてしまう構造的な問題を含んでいる・・・また、日本の母の中には、独立した個人というより自己の所有物的な観念を持つ人までいる・・・・・・

また、親の価値観は同時に祖父の価値観を8割以上引き継いでいるが故に、実際は、親の価値観は現在と大きく異なる社会的な規範に縛られている・・・・・

それが故に、“乳”と“父”の二つからの“ちち”離れが容易ではないが、絶対に多くの点での“ちち”離れは必要なのである・・・

それが故に、日本人に対するカウンセリングにおいては、本人が標榜している価値観は、本当に本人が納得して標榜しているのか検証を意識的に行う必要があるのである・・・・

多くの場合は、親が使った言葉に縛られて、自分の標榜している価値観として口に出すが、自分自身の中で形成されている価値観に対する概念的な捉え方は、現代の社会的な文脈の中で生きてきたなかで構成されており、自己内の概念と自分が使用する言葉の間に大きな乖離を生んでいる・・・・

それが故に、自分自身ですっきりしない不満状態を生んでしまい、これも、個人のストレスを起こす要因にもなっている・・・・また、カウンセラーだけでなく本人も自分自身で概念をはっきりさせる努力を行い、適切な言葉に置き換えてあげる必要があるのである・・・・・・

2.受信者責任文化とは、相手の気持ちを汲み取る、相手の発する情報を深く掘り下げ真意を汲み取る文脈の中におかれていることを意味する・・・これをより有効に機能させるには、驕らない=自分をネガティブに捉える訓練を無意識のうちに行っていることを意味する側面がある・・・・つまり、ネガティブな思考能力は、日本人は十分すぎるほどに持っており、大人には、この訓練はまったく不要だといってよい・・・・

それなのに、KY(空気が読めない)といって責める事は、頑張っているのに苦しんでいる人に、(もっと)頑張れという、カウンセリングにおいては、絶対云ってはならない禁句を言っていることになる・・・・

一方、発信者責任文化である欧米においては、子供のときから独立した個人として育てるが故に、如何に論理的に推察をして、正しい論理を組み立てるかの、トレーニングを積まされている側面があり、これをより可能にする為に、都合の良い論理付けを可能にするポジティブ思考の訓練を受けて育ってきた側面が大きい・・・

また、キリスト教は自立を強く促すものであり、そのための論理的な整理の為の対抗軸としての絶対的な“正しいこと”として聖書を通じて、自立およびポジティブ思考能力を養っている側面がある・・・・・しかし、現実社会をより理解する年代になると、自立が崩壊していく危険性をはらんでいる・・・・

それ故に、日本人に対するカウンセリングは、ポジティブ思考能力を、意識的に醸成する姿勢が非常に大事になる・・・しかし、日本文化は多神教文化に根ざしており、論理的な整理の為の対抗軸は存在しない・・・実際のこの多くを両親の価値観が担っている・・・・

Kozyは、ネガティブ思考能力とポジティブ思考能力は人間の持つ異なる能力であり、ネガティブ思考能力はリスク分析においては非常に重要な能力であると捉えている・・・そして、ポジティブ思考能力は、ネガティブ思考能力だけでは心のエネルギーが減退していくが故に、ポジティブ思考能力とは、自分自身が望む方向へ、そこにある恐怖感を乗り越えていく為の、事実をしっかり理解したうえの、心のエネルギーを維持・増幅しながら取り組む思考能力であり、この二つの思考能力を必要に応じて切り替えていくことが大事になる・・・・・・

しかし、このポジティブ思考能力への十分な理解と、その成功体験の積み重ねがないと、ネガティブには切り替えが出来ても、ポジティブへの切り替えは難しい・・・なんとならは、ネガティブ思考能力は恐怖に囚われることにより、むしろ、無意識のうちに切り替えられてしまうのである・・・・・

残念ながら、ポジティブ思考能力は、本来はネガティブ思考能力も、両方とも、表裏一体の裏と表の両方を理解する・冷静に捉える能力である、、また、同じ意味で陰と陽が物事には必ず存在して両方を捉えられる能力が、必
要となるが、人間も動物であるが故に、恐怖感を起動する裏または陰の方は捉えやすいが、恐怖感に囚われると、表または陽の方は、相対的には、捉えがたいのである・・・・・

それが故に、ポジティブ思考能力は、日本人にとっては訓練が必要なのである・・・・ここで必要になる思考訓練としては、物事をシステムの一部を構成している、また、そのシステムの中で何の機能・役割を担っているかを常に掘り下げて考える思考習慣が必要になる・・・・・これだけでは理解しにくいと思うのでもっと掘り下げると・・・・

システムの一部を構成して役割を担っているということを理解することは、こうなれば増やす、そうでなければ減らすという増減の役割の両方を担っていることを理解することになる・・・システムをより深く分類すると増やす、または、減らすという別々の機能まで分解して捉えることが出来るが、物事の表裏一体とか陰陽の視点必要な対象は通常はそこまで細かく分離されていないものなのです・・・・

このことを、換言するとシステムは何と何がどのような相関関係になっているかを理解することになる・・・増やすのが正の相関関係であり、減らすのが負の相関関係であり、通常、正の相関関係を起こすものが表裏一体の表であり、陰陽の陽であり、負の相関関係を起こすのが裏であり、陰であるのです・・・・・

この様な現実を論理的に整理する能力が磨かれることにより、表裏および陰陽の両面の正しい理解が出来るようになるのです・・・お判りのように、これは実に知的で科学的な思考能力といえることなのです・・・

脳も体も使わないと老化が進みます・・・ポジティブ思考能力とは、実は常に掘り下げてシステムとして包括的に理解する能力でもあるのです・・・・それ故に、欧米では日本の小学校ぐらいから、論理学やディベイトの授業が設けられているのです・・・

日本人であるということは、欧米人以上に普段から物事を掘り下げて論理的に理解する能力を磨く必要があるのです・・・・

発信者責任文化は、構造的に相手を説き伏せる文化でもあり、傾聴するより攻撃的になりやすい特性を持っている・・・これでは争いが耐えないとの危惧が欧米人の中に芽生えてきている・・・だから、受信者責任文化である日本へのポジティブな期待を抱く人が増えている・・・このPRを日本のアニメ文化が担っているのではないでしょうか・・・・

しかし、Kozyは、ネガティブ思考とポジティブ思考の切り替え能力が大事であるように、発信者責任文化と受信者責任文化の切り替えも同時に必要だと捉えている・・・特に、ボーダーレスの社会への舵の切られている現代社会においては、日本人は現実に基づく論理的思考能力でもあるポジティブ思考能力を磨き、必要に応じて、論理的に相手に説明する能力に磨きをかける必要がある・・・・・・

掘り下げて考えることは、面倒なことではありますが、面倒だからといってこの習慣を持たないことは、成長の放棄でもあります、ましてや、この種の議論を避けたくて、空気が読めない、とか、上から目線だとか、頭ごなしで言われるのが許せないといって、議論することを放棄するは、脳の退化を促進して、若くしてアルツハイマー病に陥る危険を高める行為でしかない・・・

ポジティブは心身の健康に大きな貢献をすることは既に公知の事実になっているが、その大きな理由の一つが頭を良く使うからなのです・・・・・大事なポイントです・・・お忘れなく・・・

| | Comments (0)

February 16, 2008

お笑いをブームとして捉える時代の終焉・・・

Kozyがよく見る番組で、局アナいわく、フジTVで唯一の教養番組といって憚らないNIPPON@WORLDなる番組がある。水曜日の夜中0:45-1:07という30分にも満たない番組がある・・・世界が日本を如何見ているかという番組である。以前発信した“受信者責任文化”と“発信者責任文化”というのは、番組の米国人のコメンテーターが発した言葉であり、今の、日本人を考えるときに自分自身の頭の中に既に一つの視点として刻み込まれている・・・

この米国人のコメンテーターは、日本人の奥さんを持ち京都のある大学の教授なので、彼の著書または論文が読みたくなり、フジTVのWebにアクセスして問い合わせをした折に、そこに次の書き込みがあった・・・・

“恐る恐る今日はじめて観ました。感激しました。受診型な日本人を肯定してくれて有難うございました。物凄く気持が楽になりました。時代の潮流、今一番ニーズがあるのは、これなんじゃないんでしょうか。私はマイナス・悲観的に捉えるのは簡単だけど、プラスに捉えるのが苦手だから、お笑いが好きです。でも本当は、こういう視点が自分に欲しいんです。マイナスに同調するのに飽きました。番組名を変えた方がいいと思います。グッド・ニュースという本を思い出しましたが、いっそのこと、タイトルから肯定的であるコンセプトをアピールして下さい。(てにあ・女・個人事業主・30's)2008/01/02 01:38:41”・・・・

この書き込みを見たとき、次の二つのことが自分の中で腑に落ちた・・・・・

1.日本人は、受信者責任文化という文脈の中では、受信者の責任という習慣が無視識の内に、自動的に起動するが、先ず最初に自分に非がないかという視点が起動している・・・だから、重みを常日頃感じてしまう・・・特に、女性の場合はギリガンの女性の道徳観の発達で述べていることを換言すると、女性はより文脈に囚われて成長するということと符合する・・・・

男性も文脈には囚われるが、女性と比べると少ないが故に、プラス、つまり、陰陽の両面を見る切り替えがしやすい・・・とはいえ、男女とも、ポジティブとネガティブ、陰と陽などの切り替えが、難しい・・・・

また、陰と陽の両方の視点を持つことは、実は容易なことではない・・・異なる価値観の理解と多方面の知識が必要であり、普段からの物事を掘り下げて考える習慣が出来ていないと難しい・・・当然それに伴う知的好奇心を生む知的活動が出来ていない・・・掘り下げて考えることを習慣にしよう・・・・

頭の中の曖昧な言葉をなくそう・・・平易な言葉で説明できないことは理解できていないことでしかない・・・・・価値観とは判断基準のプライオリティである。ところ変われば順番も変わるのである・・・

2.現在もお笑いブームの中に居ると思うが、お笑いブームが周期的に訪れるという今までの定説は、過去を振り返ると、日本が、生活の苦しかった昭和30年代、変化の過渡期にあった昭和50年代とブームであったが、今のお笑いブームは、もはや、ブームではなく、現代社会においては、以前述べたように“統合失調症は一生の友”で述べたように、心のエネルギーレベル維持のためには、必須の分野になりブームという捉え方は間違いである・・・・・・

投稿者の女性は、“プラスに捉えるのが苦手だから、お笑いが好きです”というすごいポイントをさらっと言っているが、この言葉の深い意味としてKozyの頭の中では、次のように翻訳されて入力された・・・・・・

・・・日本文化という文脈の中で、常に自分に非がないかとのネガティブな思考が起動してしまう。しかし、ネガティブな思考をすると心のエネルギーレベルがどうしても下がってしまう、心のエネルギーレベルをプラスにするポジティブ思考への切り替えが苦手である。その為にエネルギーの充電としてお笑いの番組を見て笑うことを実践しないと、危険なマイナスのレベルを超えてしまう。このことを称して“お笑いが好き”といっている・・・・

ここで云っている心のエネルギーも、Kozyは、ホメオスタシスという生命の恒常性の原理が適用され、レベルが下がりすぎるとそれを挙げる行動を脳が欲すると捉えている・・・・・・・

このことを感得したのは、芦屋に住んでいる小学生の時に、お金がないのを隠そうとして嘘をつくことに嫌になり限界を超えたときに、貧乏は自分の所為ではない、だから、“隠さずに居直ればいいじゃん”という行動に追い込まれた、そして、反発力とその居直りの素晴らしさ、つまり、有りの侭を受け入れることの素晴らしさを体得した・・・一つの人生における学習の転機であった・・・・

人生における学習とは、自分が変われることを学習というべきであり、これを契機に、今振り返ると、気がつくのが、自分はどこまで変われるのか、その限界はどこなんだろうかをずっと模索してきている・・・これが生きる目的になっている・・・

そして、その自己変革を繰り返すうちに、辿り着きつつあるのが、自分という自我などは、本来存在しないという感覚である・・・これが、釈迦のいう“諸法無我”ということにも繋がりそうだ・・・・・

また、釈迦が言うように、人生は全て苦であることを強く認識することにより、恐怖感が当たり前のものとして捉えられ、恐怖感で見えなくなっていたものが見えるようになり、よく見えると、人間の本質にも陰陽があり、あまりにも昔でいつかは覚えていないが、関係性のある全ての人および対象が全て陰になる確率を捉えてみたら非常に低い・・・飛行機が落ちる確率よりも少ない、先ず在り得ないと確信したことがある・・・・

以前にも発信したが、これが真の楽観主義は、極限の悲観主義の先にしか生まれないということであり、これが苦からの解脱=開放だと、少なくともその一つだと捉えている・・・

そして、人間が成長して活動範囲が広がれば広がるほど、全てが、直接の因果関係と間接の因果関係として自分自身に戻ってくる・・・それ故に常に陰と陽の両面から見る事を無意識のレベルまでに落としこめるまで、意識的に両面を見る切り替えの習慣化を意識して生きてきた・・・・

以前、切り替え思考の重要性をアップロードしたが、女性の場合は、この切り替えを心にマイナス影響を与えるものは見ないという行動切り替えを、むしろ思春期から習得してしまっている・・・これでは苦からの開放はない・・・

以前発信したディジットレシオの知見から言うと少子化は同性愛者の減少を生む、つまり、長男長女には同性愛者は発現しにくい。しかし、一人っ子が増えると、支えるより守ることに軸足が行きやすいので人間の脆弱性を増す・・・つまり、長女は女性的になる為に、こころをマイナスにする対象であるものには目を背け、長男は、男が故に強く生きる能力が劣るのに守られて育つと、現実と言う恐怖には目を背ける・・・・・“苦”の連鎖を生んでいる・・・・

Kozyは、“お笑い好き”でもよいと思うが、それには二つ条件がある・・・・

1.お笑いの基本は人間の構造的にもっている愚かを学び、素直に受け入れ、その愚かさを笑い飛ばす訓練だとしてみること・・・人間だからみんな同じく愚かである・・・

笑い飛ばすと同時に、悲哀(ペーソス=Pathos)と慈愛の心を持ち人間を愛する気持ちを醸成する修練であると考える・・・これが出来るようになると、自分も人間として愚かであることを受け入れやすくなる・・・これが現実直視の基本なのである・・・・

2.昔から口のでかい人間は生活力がある・・・といわれているが、著名な易者と話す機会があり、この口の大きさとは実際の口の大きさではなく笑うときの口の大きさが口が大きいとの印象を与えるとの説明を受けたことがあるが、笑うことが心を元気にするが、唇の周りの筋肉をより使用するのが当然良いのである、だから出来るだけ大きく口をあけて笑うようにすること・・・・女性の場合は自宅内では気にしなくてよいと思うので、大きく口を開けて笑うことを意識して取り組んで欲しい・・・

どれだけ善なる習慣を身に付けることが出来るか・・・これで人生が決まる・・・・・

| | Comments (0)

February 09, 2008

もっと真摯に且つ真剣に企業選定を考えよう・・・・

昨日、日経新聞の第二部として、2009年春卒業予定者の就職希望企業調査の結果が配達されていた・・・例年、時代の変化を表す指標として興味があるので見てみた・・・

男女別から見ると、

男性は、トヨタ、松下、三菱東京UFJ銀行、ソニー、シャープ、三菱商事、ANA,東京海上日動火災保険、日立製作所、三井物産が上位ベストテンである・・・

女性は、ANA、JTB、三菱東京UFJ銀行、資生堂、サントリー、ベネッセ、みずほ、東京海上日動火災保険、大日本印刷、博報堂が上位ベストテンである・・・

また、文系と理系別に見ると、

理系は、トヨタ、ソニー、松下、日立製作所、シャープ、ホンダ、東芝、NEC,富士通、三菱重工が上位ベストテンである・・・

文系は、三菱東京UFJ銀行、ANA,東京海上日動火災保険、みずほ、三井住友銀行、三菱商事、三井物産、JTB,トヨタ、松下が上位ベストテンである・・・

そして、総合では、次のようになるが、同時に志望理由が併記してあるので併せて記入したい・・・・

第1位:ANA
国際性がある74.9%、規模が大きい64.3%、一流である59.5%、仕事が面白そうである58.9%、顧客ニーズへの対応に熱心である45.6%。

第2位:三菱東京UFJ銀行
規模が大きい79.4%、一流である64.4%、安定している61.0%、経験・専門知識を身につけることが出来る57.5%、信頼できる44.1%

第3位:トヨタ
規模が大きい80.4%、一流である78.4%、国際性がある72.2%、安定している65.3%、世の中に影響ある仕事が出来る58.2%。

第4位:松下
規模が大きい72.0%、一流である69.3%、安定している55.9%、商品企画力・技術開発力がある51.1%、世の中に影響ある仕事が出来る50.8%。

第5位:ソニー
規模が大きい73.0%、一流である71.9%、商品企画力・技術開発力がある59.9%、国際性がある56.9%、仕事が面白そうである54.8%。

第6位:シャープ
一流である62.9%、規模が大きい60.1%、商品企画力・技術開発力がある55.8%、扱っている製品・商品・サービスの質が良い54.4%、仕事が面白そうである54.8%。

第7位:東京海上日動火災保険
規模が大きい70.0%、一流である62.4%、安定している55.9%、信頼できる44.5%、経験・専門知識を身に付けることが出来る44.1%。

第8位:みずほ
規模が大きい76.2%、一流である63.9%、経験・専門知識を身に付けることが出来る58.3%、安定している58.3%、信頼できる42.9%。

第9位:サントリー
規模が大きい59.0%、仕事が面白そうである56.9%、広告・マーケティング力がある56.1%、一流である52.7%、扱っている製品・商品・サービスの質が良い50.6%。

第10位:三菱商事
国際性がある76.8%、規模が大きい76.0%、一流である72.6%、仕事が面白そうである56.1%、世の中に影響ある仕事が出来る56.1%。

総合100位の企業を見ると大きく二分すると、製造業が約4割、残りの6割がサービス業(製造業以外すべて)となっている・・・・

また、志望理由は、一番多いのが約8割もの学生が“仕事が面白そうである”、次いで“規模が大きい”、“一流である”、“安定している”・・・しかし、トップテンの企業では、“国際性”や“商品企画力・技術開発力”などがキーワードにもなっているとの由。少し驚いたのが、志望理由は20項目の質問が為されているが、一番低いのが“企業の戦略、ビジョンに共感できる”であること、また、男子の間で一番低いのが“女性が活躍できそう”が、16.7%であり、ダントツに低いのである・・・・・また、“経営者が魅力的である”が全体としては三割強で一番低い・・・・

また、就職観に対する質問では、“自分の生活と仕事の両立”を挙げる学生だ最多であり、“一生、同じ会社で安定的に働く”と答えた学生が6ポイントも上がった一方、“キャリアのためには、転職も積極的に考えたい”3.3ポイント下がった、この傾向は就職環境が良くなってきた05年あたりから続いている・・・

また、希望職種は、“商品開発・企画部門”と“営業・販売”がほぼ同数で並び、次いで“管理部門”、“企画・調査部門”、“研究開発部門”の順であるとの由・・・

出典は言及しているとはいえ、これ以上詳細に書くと問題になるがゆえ、詳細は日経新聞を見てほしい・・・・

さて、以上から、何を汲み取れるのか・・・

一番驚いたのは、男子の間で一番低いのが“女性が活躍できそう”が、16.7%という女性差別、または、女性への男性の認識である・・・確かに、34.1%の女性がこのことを志望動機にしていないという事実からも伺えるが、仕事に対する認識が、活躍しなくても良いという認識を持っていることからも推察されるように、職場で女性などは戦略にならないという認識を男性が持っているとも理解できる・・・また、女性に対する嫌悪感が男性の中に竦んでいるとも解釈できる・・・・

つまり、ジェンダーフリーのイデオロギーが、生み出した弊害でもあるのかもしれない・・・しかし、本Blogでも述べているように社会的な女性への画一的な役割の押し付けは良くないが、男女にはそれぞれの生物的な特色があり、人生においての自己成長は男女の共生の中で生まれるように、21世紀における企業の成否は、男女の共生によるシナジーの最大化に依存するのである・・・・・

日経新聞の調査の場合、質問内容に多くの場合問題があるので、正確には汲み取れないが、次に驚いたのが、“企業の戦略、ビジョンに共感できる”が四割強の学生しか志望動機として重視していない・・・確かに、戦略とは昔と異なり、ころころ変わる側面があると同時に、悪いイメージがあるが故にアンケート結果に影響を与えたと思われるが、ビジョンは企業が生き残る上で一番大事なものになる・・・つまり、どれだけ素晴らしいビジョンの元に企業として発展を達成するかが、21世紀では重要視される・・・・

しかし、汚れのない学生の目から見ると、2007年の“偽”の言葉に代表されるようにどんな素晴らしいビジョンを掲げている会社であってもそのようなことは信じられないと捉えてしまう気持ちは理解できる・・・確かに、日本企業においては、経営者の体質が企業のビジョンと乖離しすぎている・・・ビジョンと経営者の体質が同化する時代が速くきて欲しいと希求すると同時に、消費者としてこのようなだめな企業の市場からの退場を促して生きたい・・・・

経営者とビジョンの結果を表す“社風がよい”には、六割強の学生が志望動機として挙げていることは頷ける・・・しかし、社風は身近な大学の先輩クラスでも、正しくは掌握しにくいものであり、学生さん達には是非、本Blogの“天職・適職の見つけ方・・・・”(2007/10/15)を熟読して欲しい・・・しかし、企業体質に一番の影響力を持つのは経営者であることは企業文化研究での示唆されており、だからこそ、株の格言の一つに、“経営者を見ろ”というのがあるのである・・・・

さて、人気企業ランキングからいえるのは、日本のGDPの約3割を製造業が占めているが、人気企業として製造業が約四割を占めているのは、世界の中の企業、ボーダーレス市場の中でも企業、そして、競争力のある生存できる企業としての正しい認識であると捉えられるが、日本の弱いところは、正に、サービス業であり、その生産性の低さは、日本のアキレス腱でもあり、先進国としての日本は市場の開放は避けられない・・・

しかし、そのような企業であっても日本では大きい、安定性がある、一流である、そして、信頼できるなどの志望動機で企業選定をしている・・・サービス業は今一番危機感を持った人が必要であり求められている・・・完全なるミスマッチであると危惧する・・・・

また、全体を通じて感じざるを得ないのが、学生の実業界の年長者との交流の欠如、または、学生がはなから耳を傾けようとしていないと危惧する・・・世界の動向なども大事であるが、これは理解しがたいと思うが、年長者の愚痴に敢えて耳を傾けて欲しい、なんとならば、そこには虚飾に飾られた嘘はなくより真実が理解できるのである・・・

いい悪いは別にして、もし、“一生、同じ会社で安定的に働く”という就職観をもつのであれば、もっと真剣に企業を勉強して、かつ、真摯に自分の長短を受け入れて企業選定をして欲しい・・・おそらく来年からは、また就職氷河期が来る可能性は十分あるのである・・・・・・

また、主要な志望動機を陰陽の視点で読み解くと次のようにも解釈できることを頭に叩き込んで欲しい・・・・

“国際性がある”とは、商売においてはGlobalizationとLocalizationの二つの側面があり、ボーダーレスの市場での競争とその地域または国に特化した市場の二つの商売に二分することが出来る・・・・国際性があるとは本来はこの両方の市場ともまったく分離独立した存在ではないということの理解、および、国際性があるとは一番厳しい商売であり、GDPベースで捉えると、日本市場は世界の10%位しかないが故に、日本市場現在強くても世界市場で弱ければ、淘汰される・・・この困難さに打ち勝つ覚悟が必要である・・・・

“規模が大きい”とは、規模が大きい故に変化への対応力をなくす部分がある。特に、日本では規模がでかくても世界市場での規模が小さい会社は、一番やばい会社であるとの認識が必要である・・・

“一流である”とは、国内市場だけでなく世界市場で本当に一流なのかが大事である・・・“信頼できる”も同様である・・・

“仕事が面白そうである”とは、本当に面白いのは、種々の困難を潜り抜けて達成するということである。また、そのためには種々の人のサポートが絶対に必要なのである・・・このことを忘れないでほしい・・・

最後に、一体何時になれば、ベストテンに外資系の企業が名を載せる時代が来るのか・・・日本市場の閉鎖性の問題でもあるが、学生の心にも同様の閉鎖性があると危惧している・・・・・・・・遅かれ早かれ、日本国も労働市場の開放は避けられない・・・・・

| | Comments (0)

February 07, 2008

内と外への一貫性への考察・・・・

人間として一番大事なことの一つに、一貫性を維持すると言うことがあります・・・一貫性を持つということは、自分の価値観をしっかりもつと言うことであり、その判断基準を明確にしておくことでもあります・・・これが、社会および周りの人からの信頼を得る一番大事なことでもあります・・・・

しかし、“君子、豹変する”という言葉もあります、また、切り替えをすることも大事でもあります・・・・・

Kozyは、一貫性とは自己の内部と対外的な一貫性の二つに分けて考えるべきだと捉えています・・・つまり、Kozyの言葉に置き換えると、その時々においてあるべき姿は何なのかを考える姿勢こそが、また、姿勢の意味するところの、ものごとの見方と捉え方の熟成度合いが内なる一貫性だと捉えています・・・・

つまり、第三の目の熟成度合いということであり、熟成するとは変化をしていくことです・・・しかし、何時でも、自己内の判断基準の仮説としてはしっかり整理をしていることです・・・いったん、これは普遍的な公理として捉えてしまうと、そのバイアスに支配される為に、それが悪い意味でのエゴを生み出すばかりか、現実が見えなくなる・・・これが人間なのです・・・

時代の変化を早く捉える為には、このバイアスは、変化を感じる能力を妨げます。そして、このバイアス=価値観は、より棄却し難いものになっていきます・・・・だから、いくら自信を持ってもそれを強い仮定として捉える姿勢、つまり、内なる一貫性は、だから“姿勢”と呼ぶのが正しい・・・・・

では、外なる一貫性を如何いうことなのか・・・・残念ながら、自分の普段の言動が周りに与えたイメージを感じ取り、そのイメージという社会的な役割を、集団の中で演じていることを意味します・・・つまり、集団から外されることに対する恐怖感が、人間であるが故に、そうさせるのです・・・・

しかし、周りで醸成された自己へのイメージの多くは、よく思われたい、嫌われたくないという気持ちに支配され、周りにこう思われたいとの言動を起動させてしまう・・・これを、心理学では、自己呈示と呼んでいます・・・本当の自分を有りの侭に開示する言動を、自己開示と呼んでいます・・・

カウンセリングをしていると、ストレスとかうつの原因の多くは、自己呈示の自分と自己開示の自分の間に大きな乖離がある・・・しかし、これは自分がまいた問題であり、誰の所為でもありません・・・自分で変わるしかないのです・・・

心の元気な人は、自己呈示の自分と自己開示の自分の乖離が限りなく少ない人です・・・または、この問題意識を持ち、切り替えをして、その時々の所属する集団において、意図的に切り替えが出来る人達でもあります・・・しかし、内なる一貫性がしっかりしていないと人格崩壊を起こし、多重人格に陥ることになります・・・・

意図的に切り替えの出来る人は、切り替えることで心のエネルギーのプラスとマイナスを意識して、常にプラスになるように管理が出来る、・・・この重要性を知っている人達でもあります・・・・

自己開示と切り替え上手の人は、孤立や孤独を必要に応じて受け入れる覚悟の出来ている人でもあります・・・これは、内なる一貫性の姿勢が確立されているからなのです・・・・・孤独や孤立を意図的に行うことを心理学では独居とも呼んでいます・・・独居に伴う孤独や孤立は不安感や恐怖感を齎します・・・・この不安感や恐怖感に打ち勝てない人には、真の内なる一貫性は獲得できない・・・・・

この内なる一貫性を習得するのは、むしろ他人との関係性においてこそ磨かれる。他人の心という鏡に映った姿を通して、私たちは自分の本性=内なる一貫性を知るのである・・・・個性と協調性は矛盾するという科学的に間違った思いこみは捨て、脳の中の鏡で大いに個性を磨いていくしかないのです・・・・個性=有りの侭の自分を開示する経験を通じて磨き上げられる・・・・

人間の脳には、これを可能にするミラーニューロンというものがあり、多くの人との個性のぶつかり合いが、内なるなる一貫性へのより深い理解を醸成するのです・・・だから、多様性を理解できるようになり協調性が生まれる・・・ただし、普遍な公理はないという姿勢が絶対条件になります・・・

皆さんも、一度、内なる一貫性と外なる一貫性について、自分で真摯に見つめては如何でしょうか・・・むしろ、定期的に見つめ直すことが必要だと思います・・・・・・

| | Comments (0)

February 05, 2008

“上から目線”という表現への危惧と考察・・・・

最近よく聞く言葉で“上から目線”という言葉がある、そして、この言葉の誤用が気になるので、この言葉を掘り下げてみたい・・・・更に、この言葉の現在における誤用が何ゆえに起きてきているのか考えてみたい・・・・

“上から目線”という言葉は、個人的にはあまり聞かなくなって久しいが、本来の意味は、“上”と“下”の者、つまり、上の者が下の者を見る目線という状態を表す言葉である・・・職位の上下、立場の上下が存在する場合の状況において、使用される言葉である・・・・・友人の間で使う言葉ではない・・・

人間は知らず知らずのうちに、上の立場におかれていると、下の立場の気持ちを忘れてしまう、そして、権力を持ち続けると“囚人と監視員の実験”の結果が示すように、権力のある人間は残虐性を増していく・・・・このことを戒める言葉として、“上から目線”という言葉が生まれたのである・・・・・・カミュの言葉の“平凡こそ非凡なり”とは、この人間の持つ構造的な問題に言及したものだと解釈している・・・・

一方、本Blogで何度も言っているが、人間の成長とはより多くの現実が見えるようになることでもあるのです・・・このことは、現実から乖離した妄想に縛られなくなることでもあり、自分を卑下したりせずに有りの侭に肯定的に受け入れることでもあり、自分のだめさを棚上げにして恨みやねたみを抱く甘えをなくすることでもあり、自分は更に成長が出来るという自分を信じることでもあり、成長の為には時間がかかることを理解することでもある、等々のことを経て多くの現実が見えるようになることです・・・

最近の“上から目線”といって相手を攻撃する発言をする人を見ると、昨今の勝ち組と負け組みという言葉を自分では使いたくないので、且つ、自分が負け組みに所属していると自己認識をしているが故に、金科玉条=一番大切な決まりや法律(また、自分の考えや行動の拠り所となる教訓や信条)として、反論として“上から目線”という言葉を使っていると捉えている・・・・

ご存知と思うが、金科玉条とは、相手の思い込みや妄想に縛られていることを非難するときに使用される言葉であり、持つべき金科玉条とは、つまり、“自分の考えや行動の拠り所となる教訓や信条”としては、普遍なことはない、それ故に、初めての、また、自分の信条と異なる意見について、自分自身で喜んで経験をしてみて学ぶこと・・・・・・・・

そして、やはり、あるべき事としておかしいと思えば、相手の間違いのポイントを述べて議論を深めること・・・・・つまり、金科玉条とは、自分自身の経験の深化とそれに伴う思考の進化を止めてしまい、人生のあり地獄に落ち込んでいくことを意味する・・・このことに対する自分への戒めの言葉が、金科玉条と捉えるべきである・・・・・

また、“上から目線”という言葉を発するときには、自分自身が“下から目線”というバイアスに囚われていることでもあることを忘れないでほしい・・・個人的には、“上から目線”という言葉は何度か聞いているが、自分自身が相手に発したことはない・・・・

この発言をすること自体が、自分自身の視点としての第一の目に囚われていることであり、相手、周りの視点としての第二の目を喪失していることであり、あるべき姿を模索する第三の目の起動は、第二の目が起動しない限りは、起こりえないことを意味している・・・・このことを忘れないでほしい・・・・・

そして、このような“上から目線”という発言が集団の中で発言されると、そのことが、集団の愚かさによる支配を増進するのである・・・つまり、発言者が意図しようとしなくても、集団の劣化として自分自身に帰ってくる・・・つまり、何時までたっても、この集団は、グループ・ダイナミックスのWorking Group=どんどん進化する作動グループには転じることが出来なくなる・・・

世の中には、完全に自己成長を成し遂げた人はいない。一生学習なのである。・・・居るのは自己成長の為の姿勢の確立できた人だけであり、集団が“上から目線”という言葉を受け入れる、または、暗黙の同意をしたならば、抵抗できなくなる場合が多いのである・・・つまり、このことは真のリーダーとは、この孤独に打ち勝つ胆力が必要であることを意味すると同時に、その難しさを意味している・・・

しかし、自己成長が出来れば出来るほど、現実が見えてくる。それが故、周りに見えない現実の共有化を試みるのである。また、上の人の中では、より多くの経験を積んでいるが故に、より自己成長した人の割合が増えていくのである・・・・・・・・

Kozyの行った研究は、正ライン部長だけを対象に行った研究であるが、同期全体の中では自己実現の姿勢の確立できている人は、50歳前後ですら一割に満たないが、正ライン部長だけの中では、その三倍の三割は存在することを示唆している・・・・

つまり、本来の戒めとしての“上から目線”という言葉が適用できるのは、七割前後であり、三割前後は誤用でしかない・・・このことを忘れないでほしい・・・・この三割をこれ以上減らすような行為は、絶対に慎むべきなのである・・・・

また、残りの7割の人達には、現実から乖離した妄想に囚われているであり、特にその中で不適切な自分へのプライドに縛られている人に対しては、この言葉自体は、火に油を注ぐことになりかねない・・・つまり、この種の弱い人を追い込むことは、パワーハラスメントの地雷を踏むようなことになる・・・上司の場合は、このタイプが7割の中で一番多いのである・・・・

また、相手をあまり知らない、つまり、関係性の希薄な人に対しては、無責任な発言となり慎むべきなのである・・・・・

頭の中に、“上から目線”という言葉が浮かんだときには、一体何が現実から乖離しているのかという現実の共有化をするのが一番大事なのである・・・この現実の共有化が相手を馬鹿にすることであるからといって、小さな親切のつもりで、つまり、遠まわしの表現として、使ったとしても効果は期待できない場合が殆どなのである・・・・

また、この発言自体は、自分は正しいが相手は馬鹿だとの自己満足でしかなく、自己満足はなんら解決への道を開かない・・・大事なのは、お互いが現実を直視して共有化することにより初めて解決の道が開かれるということなのである・・・これがあるべき人間社会のプラスに貢献する相互作用なのである・・・これが愛他性の真髄でもあるのです・・・

Kozyの口癖に、また、自分への戒めとしても良く使う言葉として、“現実は自己成長の為の神の啓示”という言葉がある・・・・この言葉を自分に刻み込んでほしい・・・・・・・

| | Comments (0)

February 04, 2008

目的と手段の正しい認識への考察・・・

目的と手段=目的達成の為の方法論について、人間は、手段が目的になるという罠に落ちやすい構造を持っていると捉えている・・・・如何にいくつかの例を挙げて説明をしたい・・・

先ずは一番一般的な例で言うと、お金持ちになりたいという目標を設定する人がいる・・・お金をためて何を実現したいのかが、本来の目的であり、お金をためるのは目的を達成する為の手段でしかない・・・そして、お金を貯めると、そのお金を何に使うわけでもなく、お金の増減がその人の一番の感心になり、お金に縛られてしまう人が多い・・・正に、冥土にまでお金を持っていくことが出来るという妄想に縛られている・・・・・

また、お金を貯めたいという人が、お金を貯められないということも多く散見される・・・この人達は、正に自分自身を正しく受容できていない、つまり、自分自身を理解できていない・・・・これでは、お金を貯めたいという目的に対しての自己の動機付け、または、継続的な行動は維持できない・・・・ただ単に、お金がないことの不安に縛られているだけでしかない・・・ある意味では不安を継続的な目的達成の為の行動のエネルギーにしている・・・・しかし、このエネルギーだけでは非常に弱いエネルギーであり、大金は貯まる事はない・・・・・

次に、仕事の目標とそれを達成する為の手段を掘り下げて考えてみると、例えば、今期の目標を考えてみると、目標設定が自分も参画して設定したものでなければ、成果主義によるインセンティブだけであり、人間が本当に取り組む気力を向上するには、あまりにも微弱なものでしかない・・・・それ故に、手段に関しても、与えられた目標達成の為のアプローチにしても、本人が真の堀下げをして考えることは期待できない・・・手段まで指示を受けてそれに従うことになってしまう・・・・

一方、目標設定に参画することは、どのような手段を用いてどこまで達成できるかを、最初に念頭におくがために、自分が仮定した方法論がどれだけ正しいかを上司などと議論することにより、それまで見えなかったことが見えてきたりするものであり、達成の可能性は確かに増すのである・・・・これが、ドラッカーが推奨した目的管理システムであり、参画が前提なのである・・・

しかし、もっと掘り下げて考えてみると、これも、目標の達成は多くの場合、インセンティブだけなのである・・・インセンティブは外発的な動機付けでもあり、人間は、内発的な動機付けがゼロでは、行動不全に陥りやすいのである・・・・

以前に、課題業績能力と文脈的業績能力という説明をしたが、文脈的業績能力の高い人の方が、目標達成能力が高いのである・・・経験の未熟な人、または、精通していない人には、課題業績能力としての課題処理能力としての知識やより深い理解を促す必要はある・・・・しかし、この課題処理能力を高めるものに文脈的業績能力が、同時に必要になるのである・・・・

では、文脈的業績能力の源泉になる能力とは、Kozyの研究結果は、次のことを示している・・・・

1.愛他性・利他性の確立・・・これが、コミュニケーション能力および説得力の源泉になる、また、チーム活動の源泉でもある・・・・

2.諸行無常の哲学の感得・・・これが普遍なものはないとの視点を確立して、陰陽の両面での視点を確立する、そして、困難なのが当たり前であり、その中で自分がどこまで出来るかに価値を見出す・・・これこそが、忍耐力および鈍感力の源泉になる・・・・

3.己を知り=悪さ加減を認識して、一生かけて自己の向上目指す、そして、そこに喜びを見出す・・・

以上の三つが文脈的業績能力を増大していく・・・・

このことを、目標と手段にわけて捉えると、文脈的業績能力の高い人は、上述の三つを如何に向上するかというものが、ゴール、または、最近は“Final Line”という言葉が、最近の米国のドラマを見るとはやっているようであるが、生きている中での設定する目標は、この"Goal/Final Line"のへ到達する為の手段として認識している・・・また、そうすることが大事であると感得している・・・・

つまり、自分の為と社会および周りの人の為が、正のシナジーを生むことを感得している・・・また、このことを人間のみが持つ知的思考力通じた知的な希望の維持能力を持てる様になってきている・・・・・

最初に述べた、お金を貯めるというのは、手段であり、あるべき目的は、自分が社会および周りの人にどれだけ多く貢献できるかということを計測するのがお金の入金額である・・・そして、そのお金を、更に、社会および周りの人に貢献できる様にうまく使っていく・・・この気持ちになれることが一番の個人の能力を発揮する継続的に行動につながって行く・・・自分の為だけの目的では、継続的な行動エネルギーは維持できない・・・・・

仕事における目標と手段に置き換えると、設定した目的の達成は、社会への貢献および周りの人=仲間としての社員達への貢献の為の手段として捉えることが出来ることが大事となる・・・リーダーは、事業の目標を設定するときに、部下に参画をさせ、ここまで掘り下げての共有化が要求されるのである・・・・

大人に成長するということは、表面的で一時的な目標を、どこまでの将来にわたっての階段の一つであるかを掌握して、説明できるかという事でもある・・・・・残念ながら、このレベルの大人は少ないが、これは経験を通じてどれだけ現実に基づいて、より実学を習得していく姿勢と能力の差に起因する・・・・

この経験学習が、上述の三つの、謂わば、あるべき人生哲学を感得する道でもある・・・ではないでしょうか・・・・・

最後に、若い人の関心事である持てることとは、目標ではなく結果であり、尊敬および信頼を超えて多くの異性に持てることは、これは災難を招くことでしかない・・・好きでない人に横恋慕されることが、男性における女難の相の本質である・・・・それ故に、恋愛においての目標は、男女の性差の学習と自分の悪さ加減を如何に正しく認識するかということであり、これが出来て、初めて自分の求めるべきライフ・パートナーを見つける能力を持つのである・・・・

端的にいうと、自分の求めるべきライフ・パートナーを探すことが目的であり、この能力を磨く手段として恋愛が必要なのである・・・・もっと掘り下げると、自己の成長の最大化を目指すことが目的であり、その為に、最高の修練の場が仕事と恋愛であるとも言いえるのである・・・・

| | Comments (0)

February 01, 2008

“うざい”という言葉からの若者への考察・・・・

“うざい”という言葉は、もともとは、“うざったい”の省略形だと理解している・・・“うざったい”とは、細かくてごちゃごちゃして煩わしいが、“うざい”に省略されるときに、鬱陶しい=うっとうしいという言葉の語感が強く含まれたと理解をしている・・・・

旧広辞苑を覘いてみると、うざつく=小さなものが集まって動くという語感も含まれる気がしている、また、有財餓鬼(うざいがき)=金銭を持ちながら欲の深い守銭奴という意味があり、人をののしるときに“うざいがき”というとの記載があり、どこかの方言として、有財=うざいという言葉だけが残った可能性も十分考えられる・・・この点では、餓えた鬼=ガキに対する言葉でもあり、それは、若者そのものへの言葉でもあった・・・

“うざい”という言葉は、分類上は若者言葉、つまり、若者しか使わない言葉である・・・・

個人的には、“うざい”は使ったことはないが、自分が若いときには“うざったい”という言葉を何度か使用した、そして、うざったい対象は、母親からの束縛であり、すなわち母親の子供を守りたい愛情であった・・・学生時代は、“うざい”とは、母親の愛情の枕詞であった・・・・しかし、ある時期から、母親の愛に“うざったい”という言葉は使わなくなった・・・・

ある時期とは、母親の価値観からの完全なる自立を成し遂げたときからと言い得るであろう・・・念の為ではあるが、親の価値観のこれは同意これは反対と言う整理が出来たということである・・・もっと掘り下げると、子供が出来てからの妻の変容を観察していると、自分の体内で十月十日間養育して、男性には理解できないほどの痛みを通じて生み出した母親は、どうしても子供を自分の所有物と感じてしまう・・・・

頭で理解していても情動として、所有物として捉えるときが多い・・・つまり、別個の独立した授けられた個人としての感覚が希薄になる・・・一方、父親は、女性のような体験は持てないが故に、母親のような所有物または分身としての感得は持てない・・・・だから、守るより支える方に軸足が行くのであろう・・・

学会では、母性は生得なのか、醸成されるのかの議論があり、相反する種々の研究結果が発表されているが、個人的には遺伝子に組み込まれていると認識はしているが、妊娠、出産のライフイベントにより、遺伝子が起動するものと感じている・・・余談です。

Kozyの母は既に他界しているが、葬式の折に、長男として挨拶をしたが、、母親を形容する言葉として、“太陽のような存在”という言葉が、体の中から湧き出てきた・・・今この言葉を考えるに実に的をえた言葉だと強く感じるのである・・・つまり、太陽は光エネルギーの発信源であり、光エネルギーは、熱エネルギーにも、電気エネルギーにも変換される、また、逆も可能なのである、そして、われわれが食するものもすべて光エネルギーより齎されている・・・

母親の愛は支えるよりも守る方にどうしても軸足がいくが、無償の愛であり、これが光エネルギーと同じように、成長するエネルギー、心のエネルギー、体のエネルギーを与えてくれた、しかし、同時に、有償の愛は、要らないですむが、無償の愛は、太陽のように毎日注がれるが故に、熱射病にもなる側面を持ち、まさに、“うざったい”ということになる・・・・

では、“うざい”という発言は何を意味しているのだろうか???・・・・

先ずは、この言葉を発することは、対象に対する深い理解の放棄を意味している・・・人の無償の愛への理解または気づきの放棄なのではないだろうか・・・・そして、無償の愛の提供者を傷つける行為なのでもあるのではないだろうか???・・・・

また、人間同士の正の相関関係を負の相関関係にしてしまう、または、人間同士の関係性の消滅を招く行為でもある・・・・しかし、人間関係には、直接的な因果を招く“因”と関係性という間接的な結果も招く“縁”とにより、結果・成果が自分自身に帰ってくるのが人間社会のメカニズムであり、“うざい”という発言は、因縁の両方に悪影響を及ぼす・・・・・

日本語には“縁起が良い”という言葉があるが、親子という縁は消えようがないので、まだ、“うざい”という発言をしても縁は切れないが、そうでない人間関係の人に“うざい”という発言をすると、悪い縁起=不幸しか発生しなくなる・・・

そして、“うざい”という発言の裏には、なかなか理解できないこと、即ち、現実からの逃避の姿勢を意味する部分がある。つまり、快楽原則と呼ばれる一時の快楽への逃避をする生き方をしていることになる・・・・社会のメカニズムを学ぶ為の人間の持つ知的思考活動を放棄している・・・・

二十歳前後の若い人のカウンセリングをしていて、自分にとっての嫌悪系と好感系を強いものから書かせようとすると、世間の流行に縛られていて、如何見てもカウンセラーの感じるものと程遠いものを書いたりする、また、書くことも非常に限定されて多くを書くことが出来ないクライアントが非常に多い・・・・これは学歴には関係なく多いのである・・・・

カウンセリングをしていると、それらの若者は、普段から物事を掘り下げて考えることを殆どしていない・・・していても、ある特定分野だけなのである・・・・しかし、アイドルや著名人への憧れだけは強くもっていたりする・・・・

つまり、自分の視点という第一の目ですら、社会的な流行やマスコミの意見等々の文脈に縛られている、当然あいて及びまわりの人の視点としての第二の目も発達していない・・・これでは、現実を理解することは出来ないばかりか、あるべき行動を判断する第三の目は、存在すらしていない・・・・

Kozyは団塊の世代=全共闘世代として、好感系 vs 嫌悪系とは、正にそのときの自分の価値観の体系でもあり、価値観の正当性を“自己批判”という名の下に、学生時代に嫌というほど議論を積み重ねた・・・・これが当時の流行でもあったが、非常の幸運であったと、今の若い人を見ていると、感じざるを得ない・・・・・・

一方、若さとは、現実社会を理解できない状況のなかで、机上の正論から物事を見て判断する構造的な特性があるが故に、純粋であり、集団の愚かさに支配された大人社会への行き過ぎへの警鐘を鳴らす役割を担っている・・・しかし、これは、純粋な心で物事を時間をかけて掘り下げる思考の上に成り立つものである・・・・

“うざい”と発言を容易にするのも若者、純粋な心で掘り下げることが出来るのも若者・・・・自分で考える若者が増えてほしいと希求する今日この頃です・・・・・

しかし、“うざい”という発言が何時までも続くことは、多様性の拒絶でもあり、異なる価値観の拒絶でもある、これを続けると、脳の考える能力が低下していきます・・・これが、うつを呼び、統合失調症の原因にもなります、現代社会の情報があふれている状況でも、経験を通じて、人間は体感、または、感得をしないと、脳内の思考パターンは塗り替えが出来ない・・・・

知性とは、新しい経験をすることに楽しみを感じること・・・と心理学では言われています・・・・・人間として、早く、“うざい”という発言が減っていくことを希求します・・・・・・

| | Comments (0)

January 30, 2008

2008年は人類史上の歴史的転換期・・・よく観察しよう・・・

2008年は子年であるが、変化の年とも言われている・・・だからという訳ではないが、今年は、正確な規定は別として、ポスト・モダニズムとは、如何いうことになるのか???・・・また、実体経済と金融経済の相互作用の解明、資本主義でもなく、市場経済主義でもない新たなパラダイム(枠組み)がどうなるのかが、変化の胎動に対して五感を研ぎ澄まし知的思考力の最大化を可能にした人には、21世紀が見えてくると強く感じている・・・・

産業革命を齎した当時の資本主義は、株主=経営者であったり、少なくとも株主は短期の株の売買益などは念頭に置かない、リスクを負担した株主であり、この当時は、企業の成功は資本の投下能力が大事であった、正に、供給が需要に追いつかない時代であった・・・・

市場経済主義は、正に、アダム・スミスの“神の見えざる手”のバランス感覚、それも、人間は情動には囚われない理性の動物であるとの前提に基づいていた・・・しかし、人間は理性だけでは判断も出来ない、情動と理性の方向性の同一化がないと判断できない動物でしかないことは既に明白になっている・・・・・

それが故に、人間は集団の愚かさに動かされる・・・これが、定期的な不況を齎してきた、また同時に、揺り戻しの機能を発揮してきた・・・・市場が隔離された市場の場合は、揺り戻しの振幅を如何に小さくするか、つまり、インフレ管理が中心でもよかった・・・・・

世界市場に、たとえ大国の米国が立ち向かうとしても、抗し切れないほど、ボーダーレスな状況を、ICTの技術革新は齎した。更に悪いことに、実体経済を大幅に上回る金融経済が、実体経済以上のスピードで地球上を跋扈する状態を生んでしまった・・・そして、金融経済も実体経済と同様に、バブルを生むことが示されたのが、サブプライム問題の本質である・・・集団的な妄想に陥っただけである・・・・

金融経済の過度な膨張および過剰流動性が、根本的な問題であろう・・・・如何統制するのか、少なくとも、金融経済がすごいスピードで跋扈することに対して如何に実態を素早く掴むのか、また、それらは出来るのか???・・・・

これだけボーダーレスが進んだ社会は、地球を一つの生態系として捉えるガイアの思想を伸展すると、地球国としての計画経済的なスキームを新しく構築していくのか、EUやその他の経済圏のブロック化は、ある意味では地球国の集団指導制へのスタートと捉えることも可能である・・・・・

しかし、世界で誰も、金融経済の実態が、金融工学の発展に伴い、掴む事が出来ない状況を生み出している・・・・非常に大きな資金が不完全な人間社会を対象として不完全な人間によりプログラムされたコンピューターが、人間の手を離れて、自動的に取引をしている・・・・・残念ながら、運用成績はコンピューターの方が集団の愚かさには支配されないので、良いのである・・・

本Blogでは何度も警鐘を流しているが、英米の発する主張は、両国の国家利益を確保する為の経済戦争に対する戦略的な意味を常に持っていると捉えるべきであり・・・両国の脅威になる国家の経済の弱小化を狙ったものでしかない・・・・

時価評価システムは、製造業の長期戦略の衰退化・・・・これを促進するのが株主資本主義でもある・・・株主資本主義は同時に、製造では勝てない米国の日本または欧州の優秀な製造業の支配を狙ったもの・・・・

ISO7千シリーズは、日本のQA/QCの手法をマニュアル化するとの大儀を挙げているが、日本の品質管理の弱体化を狙ったものでしかない・・・・

世界で一番嘆いている神は、ユダヤ教の神だと確信している・・・同じ神からのメシアがキリスト教であり、同じ神から啓示を受けたのがイスラム教のモハメッドである・・・・一神教の宗教は唯一の絶対神を崇めるが、これは異なる価値観・文化の排他性を生むのである・・・・個人的には、日本のアニメ文化がこれだけ世界で評価されている本質的な原因は、その裏にある多神教的な日本の文化の土壌を希求しているからではないかと捉えている・・・・・

イラクへの米国の侵攻は、宗教戦争でもあり、原油の利権の戦争でもある・・・

一方、ICTの技術革新は人類史上で一個人が最大の力を発揮できる状況を醸成している・・・・また、現在の地球上の民主主義は、代理人を通じた間接民主主義であるが、近い将来には直接民主主義も、つまり、PCや携帯電話を通じて、すべて直接に意見発信という投票行動を可能にしていくであろう・・・・・

政治の問題、宗教の問題、経済の問題、教育の問題、環境問題、等々は、地球人が地球国に住む人間として、運命共同体の認識を何処まで持てるかに大きく依存している・・・・この為には、人間の持つ陰陽、構造的な悪いところ、良いところに対する科学的な確認とその知見の共有化が必要になるであろう・・・・

日本は世界で一番Positiveに捉えれている国ではあるが、それは日本の固有の多神教的な文化と神とか偶像崇拝を許さない釈迦の唱える仏教の真髄の融合したものに起因しているのではないだろうか・・・少なくともいえるのは、釈迦は農業国家の王の息子として生まれ、農耕民族の価値観を基盤に生まれた宗教である・・・

釈迦は説法を基本としているが、これは正に弁証法による解決を重視しているとも捉えられ、現代というインターネットの技術の発展は、この弁証法の力を一番発揮しやすい環境を齎しているともいいえるのである・・・・

キリストは、処女のマリアから生まれた人間(?)であり、何を基盤にしているのか???、一番支持をえているのは狩猟民族の文化を基盤にしているのでは・・・、また、モハメッドは遊牧民族と創業を基盤としている・・・

農耕民族は、自然の力の壮大さを知り、集団の中助け合って生きる価値観をもっている・・・また、商業や狩猟の集団より大きな集団のダイナミズムへの造詣が深いとも捉えている・・・

孔子も、中国は農耕民族としての発展であり、その価値観と造詣からの学んだとも捉えている・・・・

日本人として今一番残念なのは、科学的な解明は正に学際の研究が求められているが、この点では米国の方が圧倒的に進んでいる・・・農耕民族の弊害でもあるアカデミアにおける“村意識”をなかなか抜けない・・・・・また、未だに象牙の塔にこもっているとしか思えない部分が多い・・・

以上述べてきたものはすべてが相互作用の関係あるが故に、21世紀のあるべき姿としてのパラダイムは未だに見えないが、2008年は、これらのすべてがダイナミックに動くが収束方向は見て来る年になると強く感得している・・・

| | Comments (0)

January 28, 2008

切り替え思考能力の修練・・・・

Kozyの口癖の一つに、“Beautiful Switcher”という言葉があり、今や体に刻み込まれている・・・・つまり、自動的に必要なときおよびそのタイミングで起動するようになっている・・・・実はこの言葉は、社会に出てアメリカ人の女性と付き合っているときに、You are very good switcher・・・といわれ、米国社会では、このような視点があるのだ気づかされたとともに、それまでに自分が人生で学んできて、その時までは、概念とその実行として既に習慣化されていたものを見事に表現する言葉であると感じてすっきりしたのである・・・・

日本語では、切り替え思考というと、風見鶏とか、変わり身が早いとか、無節操とか悪いニュアンスしかない概念に、自分自身が日本人として、日本の文化の中で育った故に、自分の中の日本にはない新しい概念に対する正しい言語化が、そのときまで出来ていなかった・・・・

また、その当時の自分の中での概念は、日本の文化にしばられていたが故に、素晴らしく見事な切り替えとは、切り替える前の次元と切り替える先の次元の両方を熟知していないと出来ない・・・両方を熟知する前の未熟者には、切り替えるのはそれこそ十年早いとの戒めであった・・・・

話が少し落ちるが、このようにいわれた時に、What do you mean?・・・問いただした、彼女は、You are typical elite business man from 9 to 5, but after 5, you are typical gigolo・・・といわれた、つまり、仕事の次元をよく理解して演じることも、Gigolo=日本ではプレーボーイという意味になるが、女性をよく理解して女性をひきつける言動に長けている・・・つまり、仕事と恋愛の次元に精通している・・・ということで、問いただしたが、いやみでもなく褒めている・・・また、日本人では珍しいといわれた・・・

今回、忍耐力とか、イマジネーション能力とかを掘り下げていると、この切り替え能力の向上は、自分自身の中でもっと深い意味を持っていることに気がついた・・・つまり、上述した異なる二つの次元に対して精通することだけでなく、人間の構造的な問題を乗り越える為には、意識的な切り替えを必要に応じてすることが重要であると事を理解してほしい・・・

では、どのような切り替えが必要なのか・・・・思いつくままに羅列をしたい・・・しかし、これらは無意識に出来るようになるまでは意識的に取り組む、つまり、修練項目でもある・・・

* 冒頭の例は、学生から社会人になったときは、社会人としては未熟者であるが故に、言われることは素直に取り組んで全体を把握したときにおかしいと思う場合のみ反論をする・・・つまり、自分で100%は納得できない中での取り組みであるが故に、それなりのストレスを当然感じていた・・・しかし、恋愛は中学校から自分を追い込んで修練してきたものであるが故に、ストレスより楽しみが大幅に上回っているので、9 to 5でストレスで心のエネルギーが低下したものを、After 5では、心のエネルギーを充電していたと今では理解できる・・・・

9 to 5での仕事のストレスは自己の未熟さへの気づきでもあるが、ストレスを自己成長に昇華させるには時間が必要であり、心のエネルギーのDischarge and Rechargeの切り替えを常に意識することが大事である・・・なんとなれば、心のエネルギーがあるレベルを超えて低下すると、その復旧はより困難なものになるのが人間なのである・・・・

* 陰陽の両側面、表裏一体の両側面、そのときに恐怖感の対象により、どちらか一方だけを見てしまう・・・これが人間の構造的な問題である・・・・それ故、両面を見ることが出来ていないときは、心のモードの切り替えを行い常に両面を見る習慣をつける・・・・

* 上述の両面を見るときには、自分の視点という第一の目は、否応なしに起動してしまうが、このときには自分は何を判断基準として捉え判断しているのかのモードに切り替える、そして、相手または周りの視点である第二の目では、如何なのか、また、その判断基準は何なのかのモードに切り替える、そして、この状況のあるべき姿は何なのかと自問する第三の目でみる、また、その場合の判断基準は何なのかというモードに切り替える・・・・これが無意識に出来るようになるとカッと来ることは限りなく減っていく・・・・

* 以前アップロードしたが、ポジティブ思考とネガティブ思考は人間の持つ異なる二つの才能であり、そのときの状況によりどちらか一方が先に起動するが、ポジティブで最初に捉えたら、次はネガティブに切り替え捉える・・・どちらか一方の自分の都合の良い方に囚われる、または、恐怖感の強いほうに囚われるのが人間の構造的な問題であるが故に、常に、切り替えて両方で真実を見る習慣を身につける・・・・

* ズームイン、ズームアウトという言葉がるが、物事を正しく捉えるには、ミクロシステム、メゾシステム、エクゾシステム、そして、マクロシステムの四つぐらいには分けて捉える、また、この視点を最低一往復はして捉えることが重要である・・・つまり、各システムごとに切り替えてみる習慣化が大事になる・・・現代のような複雑系の社会では、木と森、つまり、ミクロとマクロだけでは不十分であり、層別して見る必要がある・・・・・

アカデミアにおける経済学とか経営学は、後付の理論であるが、後付の対象はマクロシステム以外の構成システムについてであり、特にミクロにおいては、大きな個体差があるが故に、鵜呑みにしてはいけない・・・

* 人間は論理的に整理しないと不安感に駆られるが故に、直ぐに因果関係を求める弱さがある。しかし複雑な社会においては、単純で絶対的な因果関係の特定は難しい・・・因果の特定が出来ないことは普通だと切り替えて、どれだけの複数の要因が働いたのか、また、その中で一番大きなものは、または、一番が特定できなければ大きな要因とは何であるかを掌握しておくことが大事である・・・・

上記以外に何か思いついたら、適宜追記します・・・・・

最後にもう一度いうが、切り替え能力とは、残念ながら、上述したすべての項目の組み合わせが要求される知的思考能力でもあり、その組み合わせは数は膨大になる側面がある・・・だから、人間は途中で考えるのを諦めてしまう・・・

また、換言すると、文系の人にはかえって解りにくくなるかもしれないが、物事を見るときにはそれ自体がいかなる次元の下に、置かれているかを見ることでもあり、各次元の相関関係や相互作用を理解することの重要性を理解する為の思考方法でもある・・・しかし、その人の経験と成長の度合いにより感得できる次元と出来ない次元がある・・・これが人間の構造的問題なのである・・・・

しかし、これらの切り替え思考能力は習慣化により、自動的に起動することが可能になる・・・つまり、日ごろから、物事を掘り下げて考える習慣を身につけることが大事となるが、習慣化されて自動的に切り替え思考が出来るまでは、苦行でもあるが、これが体に、刻み込まれると、より物事の本質を見る目が養われる・・・・・

それ故に、切り替え思考能力、むしろ、その習慣化は第三の目の熟成を早める・・・

追記;

* 人間は自分が標榜する価値観に縛られる構造的な問題がある、つまり、多くの人が自己崩壊をしていく最大の原因は、時代の変化が齎す価値観の変化に対応が出来なくなり、崩壊をしていく。本Blogで何度も述べているように、Unlearn & Relearn つまり、自分が習得してきたものの棄却と再学習の連続が、自己成長であり実学の習得である・・・

これが簡単でないことは、世界に名を残した文化が、衰退した原因であることが示している・・・だからこそ、先ず切り替えをして、異なる価値観に身をおいて、五感と知的思考力をフルに発揮して、真摯に吟味をする・・・・これも、正に、切り替え思考能力である・・・・先ず切り替えをする=遣ってみる=経験から学ぶことでもある・・・

* 人間は自分の限られて偏った経験に基づき相手への好き嫌い、得て苦手を判断してしまう構造的な問題を持っている。それは、自己成長の機会を大幅に減少させることであり、捉え方の切り替えとして、何が原因でこうなったのかの視点で交流の機会を持たして頂く姿勢で、五感と知的思考力を屈指して観察をさせてもらう・・・・

この機会は、苦手とか嫌いの気持ちには理解できないと思い込んでいる側面があり、自分が知らない人間の成長の異なるメカニズムを学習する最高の機会なのである・・・この繰り返しが対人関係の悩みを大幅に現象させる・・・Kozyは、理解できない人に出会うとワクワクして交流の機会を増やし、自分の知らないことの発見機会として歓迎する・・・・

* 切り替え思考能力を身につけると、切り替える=つまり別の次元での思考を強いられる・・・だから、それまで見えなかったものが見えてくる・・・これ、正に、自己成長なのである・・・つまり、切り替え思考能力の向上とは、そのための必要条件である・・・・

最追記:

* 別途以前にポジティブ思考とネガティブ思考は、二つの異なる別の能力であるが故、両方の思考を行き着いたところで切り替えることの有効性をポストしているが、ここに念の為に追記しておく・・・・

| | Comments (0)

January 25, 2008

忍耐力への考察・・・・

本部ログでよく使う言葉に忍耐力という言葉がある・・・一度この言葉の構成概念はどういうことなのか、自分自身でもっと掘り下げてみたくなった・・・・

先ずは広辞苑で“忍耐”という言葉を引いてみると・・・こらえること、たえしのぶこと・・・と記載されており、その力=エネルギーが忍耐力であるということである・・・では、堪えるとは、・・・自分を抑えるとか克己=己に克ということであるが、これは、有機的な内発的または生理的な衝動を抑える、つまり、行動、表情、言葉を抑える・・・つまり、抑止力の側面がある・・・・

しかし、同時に、堪えて継続的な努力をする、つまり、行動への転化を促し、維持促進するという、抑止力とは反対の側面がある・・・一方、耐え忍ぶが、この漢字のもとであるが、我慢をする、つまり、動かないとか逆らわない心的な静止状態を意味する側面がある、しかしながら、これも継続的なつらい行動を歯を食いしばって継続していく側面もある・・・・

一方、英和辞典で忍耐をひいてみると、Perserverance=(困難に負けない)根気強さ、Endurance=長期にわたる忍耐=辛抱、Patience=(冷静な)忍耐(力)、Tolerance=忍耐・我慢・・・・どうも一番忍耐力に近いのは、Patienceだと推察される・・・

英語では、病気の患者をPatientともいい、入院している人をIn-Patient,通院している人をOut-patientと読んでいる・・・患者には、確かに、忍耐力が必要であり、そして、生きたい気持ちがあるが故に、治療を受けている・・・また、この気持ちが自然治癒力を向上するのである・・・・・

以上を総合すると、Kozyが使用している忍耐力とは、上位概念としては、抑止力と継続力の二つより構成されている・・・平たい言葉にすると、後ろに戻されない気力、たとえ一歩下がっても二歩踏み出す気力と言っても良いだろう・・・・

この上位概念を動かすのが、下位概念としての、心身のプラスのエネルギーレベル、つまり、心的エネルギーと体のエネルギーの総和であると捉えたい・・・では、このエネルギーは何に対して注がれるべきなのか・・・・一つは恐怖感であり、もう一つは知的活動を通じての希望の論理的な維持に注がれるべきではないだろうか・・・・・

最近、別途“時代は対峙能力を求めている”というのをアップロードしたが、このように掘り下げていくと忍耐力と対峙能力は極めて近い概念であると痛感してしまう・・・・

対峙能力と忍耐力の構成概念は、たとえ同じであっても、知的活動を通じた希望の維持能力により軸足があるのが、忍耐力ではないかという気がしている・・・対峙能力では、この知的活動を通じた希望の維持能力についての説明はあまりしていないので、本ポストの中で少し説明したい・・・・

出来るだけ具体的に説明をすると、抑止力の中には恐怖感という情動に囚われすぎない為に、つまり、情動として起動するのは、あくまで自分の視点である第一の目であり、この情動に負けると相手の視点である第二の目が起動しないばかりか、本来は如何あるべきかを考える第三の目も起動しない・・・つまり、上手くいく可能性があるものですら、第一の目だけでは、上手くいかずに、お互いに感情的な軋轢だけが残るのである・・・・このことは、もう誰もがわかっている筈である・・・・

それ故に、感情がこみ上げてきたことは誰でも判ると思うが、この時に、これは第一の目の意見、第二も目は如何なのか、第三の目はどうなるのか、つまり、この三つの目を意識する・・・これは訓練で出来ることである、つまり、人間は習慣化することにより無意識に対抗できるのである・・・・・

心のエネルギーは、希望が持てない状態では最低レベルまで下がってしまう・・・物事には、陰陽、表裏一体、時間による変化と関係者の変化等により変わっていく、つまり、仏教の知恵の如く、世の中は諸行無常、つまり、普遍なことは無いのである、それ故に、システム的な理解とそのメカニズムの理解を向上すると、可能性が=希望があることが理解できるようになる・・・正に人間にのみ与えられた知的能力の賜物なのである・・・・そして、これが、継続力を生むのである・・・・

また、恐怖感に縛られるとあるものが見えないのである、また、あって当たり前と思っているものが自分の中に存在すると、言い換えれば、すべてのあるものへの感謝の気持ちがもてないようでは、現実にある有形のものは見えても無形のものは見えないのである・・・・現実がより正しく見えない限りは、希望に対する自身が十分沸かないのである・・・

恐怖感の対象にしても、目を背けない習慣を身に着けると、五感の麻痺のお陰で、だんだん恐怖感になれる=より現実が見えてくる・・・・・また、すべてに感謝する姿勢を習慣化すると、あって当たり前と思い込んで見えなかったものが見えてくるようになう・・・・これらも人間に与えられた才能であり、これを有効利用できるのは知的能力の賜物なのである・・・・

きつい言葉であるが、抑止力も継続力も不十分であるという人は、せっかく与えられている人間の能力の無駄使いをしているだけなのである・・・・

仏教の知恵である、“諸法無我”は、簡単に言うと、自分が独立した存在であるというのは妄想でしかない・・・つまり、己の存在は、すべての自分以外のものとの相互作用の中にしかない・・・・つまり、影響しあっている、また、支えあっている一時的な存在でしかない・・・・この理解が出来るのには確かにあるレベル以上の人生経験を通じて、やっと感得できるものではあるが、この理解が出来ずに、自我に囚われるが故に、不必要な余分な恐怖感および苦痛に襲われるのである・・・

これも人間の知的な観察能力および知的な概念の言語化能力による知的な整理作業により齎されるものである・・・・・・人間が人間であるが為には、忍耐力を磨くことは、それが故に大事なのである・・・・

人生は、ある意味では、患者であることであるが、In-patientからOut-Patientになれるように知的活動能力を高めていくことが課されている・・・そして、最大限に知的能力を発揮した人が、“涅槃寂静”・・・苦しい病から開放される・・・・

| | Comments (0)

January 24, 2008

夫婦・恋人という集団力学への考察・・・

“Fight or Flight”グループという言葉がグループ・ダイナミックスの知見にある・・・意味は、闘争(fight)か逃避(flight)の二者択一の選択しか出来ないグループであり、基底想定グループの一つであり、つまり、未熟なグループの一つなのである・・・

批判になるので出典はいわないが、恋愛における心理学関係のBlogで次のようなことが書かれていた・・・

一対一の男女の喧嘩の場合、男性の場合は、このFight or Flightの二つの選択択一しか出来ない・・・

一方、女性はというと、ケンカになったときには「とりあえず、気持ちをはき出してしまって、心の内をわかってもらいたい」と思っています。・・・・

ケンカの時、女性は
(1)自分の思いを相手に話す
(2)そして気持ちをわかってもらう
(3)最後に「よしよし」ってしてもらって
(4)仲直り
という感じのシナリオを頭の中に作っています。

Kozyも確かに、一般論では特色を良く捉えているとは思いますが、ここで述べられている男性の場合は、次のようなことが要因になっていると捉えています・・・

1.喧嘩の内容によりますが、女性が男性の多くが持っているプライドを傷つける発言をしたが故に、Fight or Flightの行動をとってしまいます・・・・

2.男性が理性的に理解しようとしても、理解できない・・・つまり、女性は男性よりも約8倍もの観察力を持っているが故に、つまり、男性には見えないものが見える為に、女性は、それが解らない男性に苛立ちの感情をぶつける・・・これでは、男性は理解できないまま責められる為に、Fight or Flightへ追い込まれる、 むしろFlightの法が多いと思われるが・・・・

3.女性のシナリオが示しているように、これを端的に言い換えると、女性自身への男性の愛情確認を求める行為である場合は、このことが判断できる男性は非常に少ない・・・それ故に、男性が理性的に事実の確認をして理解しようとするが、かえって女性の感情を傷つけることになり、男性はFight or Flightの二者択一の選択しか取れないようになる・・・・

これらの男女間の争いは、男女の観察能力の違いにより生まれることが多い。また、概念の言語化能力の不足が男女の壁を高くしてしまう構造がある・・・・

人間は、言葉を通じて頭の中で整理をする動物である・・・しかし、言葉の規定は人それぞれに異なるなる為に、言葉の規定の共有化、つまり、言語を通じての概念の共有化をする能力が必要になる・・・これが社会的な対人関係のスキルの大事な要因でもある・・・・・しかし、この概念をより正しく認識する為には、ありのままの事実をお互いが見えていることが必要になる・・・・

しかし、ありのままの事実とは現実のことであり、釈迦の言葉を借りるまでもなく、現実をありのままに見ることは恐怖感への直面化が必要であり、それ即ち苦行な訳です・・・女性の場合は、自分の心にマイナスのエネルギーを起こすものには、目を背ける生活の(悪い)知恵を習得している人が多い・・・また、男性は、観察力の低さより現実を正しくつかみ難い構造を持っている・・・・

また、男女とも、現実に対して恐怖感を持っている対象は、五感を閉じてしまい見えない構造的問題を持っている・・・・

熱愛中には、喧嘩があまり起きないのは、お互いの発する言葉を、お互いが、あばたもえくぼの例えのように、自分の都合の良いように解釈してしまう・・・しかし、時間を重ねるにしたがい、大きく言葉の規定内容が、つまり、その概念が違うことを学び、自分に合わせろという傲慢さが、喧嘩そして離別へ導く・・・・これが、多くの恋愛および結婚が、誤解に始まり失望に終わる大きな要因でもある・・・・・

尚、あばたもえくぼ・・・とは、もう一つの側面がある、つまり、物事は捉え方でまったく異なる評価をする・・・また、性格などは、何事にもおおらかで気にしない人は、明るくて楽観的な人ともいいえるが、嫌な現実に目を背けるだけの人であれば、追い込まれないと遣らない、本当の配慮が出来ない場合もある・・・

性格は表裏一体の側面があり、人間の都合の良い方しか目を向けない構造的な問題より、表裏一体の性格の悪い裏の部分を受け入れていない人が多い・・・正にご都合主義の人間が多い・・・しかし、しっかりと表裏とも自分であると認識している人にとっては、自分自身が受け入れられていない感じてしまう・・・・

Kozyは、個人的には世間で欠点といわれる性格特性に惹かれると認知することが多い、つまり、長所は長所でよい訳であり、自分の中で表裏一体ですべてを愛していることを意味していると論理的に整理できるであろう・・・・

恋愛にしても結婚生活にしても、もともとは他人であるが故に、言葉の規定する概念は異なるのは当然である・・・また、それらの言葉が規定する価値観にしても、その正しい概念の共有化は非常に難しいものでもある・・・・またこれらは長い時間を共有化することにより解って来るものなのである・・・・

グループダイナミックスにおいては、ワーキンググループと呼ばれる成熟した人間のグループというのがある、お互いの理解の深化と事実に基づく科学的なアプローチ、そして、解決には時間がかかることを理解している人達を意味します。一方、基底想定グループの特色は、事実=現実から乖離した妄想に縛られている、そして、時間的観念=忍耐力が無い・・・・

この基底想定グループは、三つに分類され、BaD(依存タイプ)BaF(闘争または逃避タイプ)そして、BaP(つがいタイプ)に分けられる・・・

大きな特色としては、BaDは、自己評価が特に低い、つまり、云われた事はしたがうが、人に依存してしまう、BaFは、個人より集団を重視しすぎる、また、知識習得するのではなく所有し、その知識に囚われてしまう、闘争する、または、逃避することは、自分を救ってほしい叫びでもある、つまり、問題解決思考が取れない、BaPは、メシア願望に依存している、自分から何もしないで、メシアに自分を救ってくれる新しい概念を求めている・・・・

しかし、基底想定グループの人達は、本当に救われることは、現実への直面化、即ち、自己変容の苦悩を知っている為に、自己変容に抵抗を示す・・・・成長の拒否をしている・・・・

以上を総合すると、以前から、女性より多く受ける質問として、愛せる人がいない、そして、どのような人が真に成長できるのかとの質問を受けることがあるが、その場合の答えは、自己をありのままに受け入れて、愛は育てるものであり、育てる為に、お互いが善なる方向へ導いていくことが可能になる動因になれる人を探してください・・・・ということになる・・・・まず、自分が変わること・・・・

動因とは、行動が生起するために必要な内的状態のことを意味し、英語では、Driver=自分を動かすと規定されている・・・よく人生のパートナーと呼ぶことがあるが、パートナーとは運命共同体のことであり、人生の伴侶とは、Partner and Driver・・・子の二つが重要であると捉えている・・・・

また、冒頭の男女の特性が一般的に正しい、または、そのような人が多いということであれば、・・・・・

女性は、理解を求め気持ちをわかってほしいのであれば、現実で気づいたことを先ず共有化して、その現実をもとに問題解決のスキルをもたない限りは、BaDの依存タイプに陥りやすく、そして、理解してもらえないと、攻撃に走るBaFになってしまう、また、夢やロマンばかりを求めるのは、BaPになってしまう・・・・何れも未熟の証明である・・・

しかし、観察力の優れている女性は相手の弱みを見抜く力があるが故に、攻撃に出た場合の攻撃力は男性には抗し難い側面がある・・・・よって世の男性の多くは結婚後多くの人が妻には頭が上がらなくなる・・・・・

一方、男性は、女性の観察能力のレベルの違いを正しく認識して、また、喧嘩の目的が“最後に「よしよし」ってしてもらって、仲直り”であることを理解して、味方である・愛していることを示す言動にて、女性が認識していて男性が認識できていないものは何かを掘り下げるスキルをもてない限りは、BaD,BaF,BaPからは脱出できない・・・

自分を含め諸先輩の夫婦を見ていると、多くの人が、本当の夫婦愛を醸成するのは、正に銀婚式前後である・・・お互いの言葉の規定する概念の違い、また、お互いの能力の違いを認め合うのには、25年前後の時間を要する・・・・

恋人・夫婦も二人の関係であることは集団を意味しており、そこにはグループダイナミックスが働く・・・また、代表的な集団である会社組織である集団のメカニズムの理解の促進にも恋人・夫婦関係で学習したことが役立つ・・・・・この二つの集団の大きな違いは、・・・・何を目的とした集団の存続の為の集団構成員である意識の違いだと捉えている・・・・・

夫婦の場合、銀婚式前後で、夫婦という集団の存続目的のフェーズが合っていると確信出来るということだと、捉えている・・・・・

| | Comments (0)

January 18, 2008

無知は罪・・・仏教哲学に学ぶ(1/2)・・・

以前フリーターの若者のカウンセリングをしているときに、無知は罪ですか???・・・と聞かれて、やはり罪だといわざるを得ないと答えた事がある・・・そして、何が不可欠な知識でしょうかと聞かれて、自分の中で自信を持って答えられなかったことがある・・・

釈迦の説いた本来の仏教は、Kozyとしては、折に触れ学んでいると、正に宗教というより哲学であり、悟り=自己成長の究極への導きではないかと捉えている。それ故、ふと最近のwikipediaでは、どこまで内容が向上しているのかと思い覘いてみた・・・以下は、wikipediaからの抜粋である・・・

三学とは、仏道を修行する者がかならず修めるべき基本的な修行項目をいう。涅槃経の獅子吼菩薩品に詳細に説かれている。

「三勝学」(さんしょうがく)ともいい、(1)戒学、(2)定学、(3)慧学の3つを指す。

戒学: 戒律のことであり、「戒禁」(かいごん)ともいい、身口意(しんくい)の三悪(さんまく)を止め善を修すること。律蔵に相当。

定学: 「禅定」(ぜんじょう)を修めることで、心の散乱を防ぎ安静にするための方法を修すること。経蔵に相当。

慧学: 智慧を修めることであり、煩悩の惑を破って、すべての事柄の真実の姿を見極めること。論蔵に相当。
 
この'三学は、三蔵に相当しており、上記のとおりである。

三学それぞれの関係は、戒をまもり生活を正すことによって定を助け、禅定にある心によって智慧を発し、智慧は真実を正しく観察(かんざつ)することができ、それによって真理をさとり、仏道が完成される。このように、戒定慧の三学は不即不離であり、この三学の学修をとおして仏教は体現される。

本来は釈迦が使っていたサンスクリット語を理解して、サンスクリット語を読むべきである。つまり、言葉にはその裏にある文化があり、また、翻訳した人のバイアスが入るので、誤解を生む土壌がある。更に、上記で使用されている漢字は、現在では漢字そのものの理解が困難になってきている。それ故、解りにくいと思うので、Kozyの独善での解釈をすると次の様に言いえるのではないだろうか・・・・・・

人間は如何に良い習慣を身につけることが大事であり、その習慣を守ることにより、個人個人の心の安静を習得するする。そして、恐怖感または煩悩に縛られた心では、現実にあるものが正しく観察できない。この縛られない心により智慧は生起される、また、真理を悟ることが出来る・・・・これこそが仏道である・・・

如何に良い習慣を身につけ、如何に正しい観察力を磨き、如何にそれらの観察結果を知的に掘り下げる思考力をもつことが出来ること・・・・これらは、日々意識して取り組む必要があるが、時間を要するものである・・・・正に、焦らず、諦めず・・・・

また、仏教の教えの基本は、三法印(3つの根本思想)である。(三法印に一切皆苦を付加し、四法印とする経典もある)

諸行無常 - 一切の形成されたものは無常であり、縁起による存在としてのみある
(縁起とは、「因縁生起」(いんねんしょうき)の略。仏教の根幹をなす思想。縁起は「縁って起こる」こと。「因」は直接原因、「縁」は間接原因のことであり、世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って消滅変化しているという考え方をさす語である)

諸法無我 - 一切の存在には形成されたものでないもの、アートマンのような実体はない
(アートマン (Atman) は、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。)

涅槃寂静 - 苦を生んでいた煩悩の炎が消え去り、一切の苦から解放された境地が目標である

一切皆苦 - 一切の形成されたものは、苦しみである

これもwikipediaよりの抜粋であるが、上記の三学と同様にKozyの独善で解釈をすると、次のようになるのではないだろうか・・・・

諸行無常とは、自業自得の真理と周りとの良い悪いの両方の関係性の連鎖で起きるものであり、関係性は日々変化していく為に、普遍なものはない・・・・

諸法無我とは、一切の存在は一時的な状態でしかない。また、アートマン=この潜在意識も、掘り下げて見つめることが出来るようになると、そこには本当の自分の“我”すら存在しないことを知るべきである・・・・

涅槃寂静とは、すべての煩悩を消し去ることは、凡人には不可能に近いことである。しかし、これを最高・最終の目標にして生きることが、人間に課された宿命であることを知るべきである・・・・

一切皆苦とは、正にすべてが苦しみであることを、真摯に受け止めるべきである・・・・

これらの四法印は、悲観主義にとられがちであるが、以前、本Blogでも述べたと思うが、究極の悲観主義の先に初めてあるべき楽観主義に達するとKozyは、経験的にも捉えており、この仏教の基本してはすべてを積極的かつ主体的かつ前向きに捉えることを促している・・・・

釈迦の悟りの内容は、四諦と縁起及び無我であるといわれており、そこに至る方法論も釈迦は述べている。それは、苦からの開放であり、苦を感じる原因を順番を解説した十二支縁起といわれるものであり、その最初が、“無明(無知)”であり、最後が、“老死(老いと死)”の悟りである。つまり、無知であることは12段階の最低の存在でいることである・・・やはり、社会の構成員としては無知は罪だといいえる・・・・

この続きとして、大胆にも、Kozyの独善での十二支縁起の解釈を試みたい、そして、必要な知識とは何なのかを解明したい・・・しばし時間をください・・・・

| | Comments (0)

January 14, 2008

仏教の煩悩の捉え方より学ぶ・・・

京都新聞のおもしろ宣言 http://www.kyoto-np.co.jp/kp/special/omoshiro/shikake13_02.php より、108の煩悩に関する面白い記事を発見したので、以下に抜粋をペーストします。そして、Kozyの視点での掘り下げた解釈を、始まりに“・・・”を入れた後に挿入します・・・・

「教義に合わぬ」 東西本願寺は鳴らさず
 妙心寺、延暦寺など、仏教教団の本山でも「除夜の鐘」は鳴らされるが、不思議と東西両本願寺は鳴らさない。「教義に合わない」というのが理由らしい。

 東本願寺(真宗大谷派本山)にも、立派な梵鐘がある。阿弥陀(あみだ)堂の前に、1604(慶長9)年に鋳造された梵鐘があり、毎朝、日の出のころに鳴らされたり、儀式や法要、時刻を知らせている。

 同派教学研究所員の竹橋太さんによると、そもそも、同派では108つの煩悩を除くという考え方をしないという。「煩悩があると分かることが親鸞さんの教えで、煩悩を打ち消すことはありえない。だから108の煩悩を払うという思想がない。煩悩をなくすことがいいことだという答えを求めるが、答えを求める自分が煩悩なんだと。自分は煩悩以外の何者でもない。だから煩悩を絶つことはないのです」。西本願寺(浄土真宗本願寺派)でも同様に、除夜の鐘を鳴らしていない。

・・・煩悩をなくす為の答えを求めることが、煩悩でしかない・・・つまり、どのような煩悩が何が故に生まれてくるのかを知ること、つまり、人間の構造的な問題を認識することが大事であり、構造的な人間の問題が故に、煩悩をなくそうと思うことは、自分自身を真に受け入れていない。・・・・

・・・正しい自己受容が無くして、煩悩を絶つ方法を求めることは不可能であり、この不可能を求めることこそ強欲であり、一番大きな煩悩といいえるのである、言い換えると、現実を直視しないで、現実を曲解して妄想に縛られることでしかない。

・・・また、このことの意味する含意は、煩悩に縛られる人間が構成員である社会においては普遍的なことはないことを意味しており、この事実の認識が大事なことなのだと・・・・人間は不安から逃れたい為に、何でも理解してその公理を求めたがる構造をもっているが、社会に対しては公理のような普遍的なものはない・・・

・・・釈迦は、煩悩は打ち消すことは出来ない、しかし、現世での修行を通じて煩悩に縛られることを最小限にすることは出来る、その為に、次で述べられている煩悩の構造的な理解と言う現実の直視を促している・・・とKozyは捉えている・・・・

108の煩悩に4つの説
 「煩悩」とは、仏教では心身を乱し、悩ませ、正しい判断をさまたげる心の働きをいう。除夜の鐘で打ち消す百八つの煩悩とは、どんなものなのだろう。4つの説を紹介すると;


 (1)人の体や動きを意味する六根(眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い))と、三種(好、
悪、平)を掛ける。心をけがす六塵(ろくじん)(色(しょく)、声(しょう)、香(こう)、味(み)、触(しょく)、法(ほ
う))と、三受(苦、楽、捨)を掛ける。掛けたものを足すと、計36。さらに三世(過去、現在、未来)を掛けると108になる。

・・・肉体の関係の六根とは、現在では五感感知部位とその習慣的感知=癖、三種の好とは快感系、悪は、嫌悪感系、平とは、癖のないこと。同様に、心では、五感が心の構成要因になっていると捉え、また、法とは、心の捉え方のルールが煩悩に囚われていると捉えている。 三受の苦は嫌悪系、楽は好感系、捨とは白紙の心・・・とKozyは捉えている・・・

・・・現在では既に肉体と心が密接な関係があることは確認されている。しかし、両方からの修行が必要なことを釈迦は理解していた・・・

 (2)人生の苦悩の根本原因の四苦(しく)(生、老、病、死)と、八苦(愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦と四苦)の語呂合わせで、四苦(4×9)と八苦(8×9)を足すと108つになる。

・・・語呂合わせで後から誰かがとってつけた感じはするが、正に人生は四苦八苦の絶え間ない苦の連続であり、苦しみから逃れたいという煩悩を意味している・・・とKozyは捉えている・・・

 (3)1年の気候を合計。12カ月、立春や大寒などの二十四節気、旧暦で5日間を一候として1年を分けた七十二候を足すと108つになる。

・・・これは、自然環境の変遷という文脈が期待と同時に苦しみを与える。しかし、これらは人間の次元を超えたところで司られている・・・逆らうな・・・と釈迦は言いたいのであろう・・・とKozyは捉えている・・・・

 (4)倶舎宗では、煩悩を「見惑」(4つの真理をみることですぐに断たれる煩悩)と、「修惑」(修行によって断たれる煩悩)に分ける。見惑は10の根本煩悩に分けられ、それぞれ欲界、色界、無色界の3つの境遇があり、その3つの境遇には、苦諦、集諦、滅諦、道諦の4種類(四諦)ある。すべてを掛け合わせると120だが、そのうちに除かれるものがあり、さらに修惑の三つの界を足すと98。それに心を縛って修繕を妨げる十纏(じってん)を加えて108つとなる。

・・・この項には補足説明が必要と思うので下記する;
見惑(けんなく)
 欲界・色界・無色界の三界のそれぞれの四諦における煩悩が断ち切れた修行段階を見道(けんどう)と呼び、これらの断ち切るべき煩悩を見惑という。

修惑(しゅわく)
 見道の位に達した後、具体的現象に対して繰り返し修行を続ける段階を修道(しゅどう)と呼び、この段階で絶つべき煩悩を修惑という。

十纏とは;
無漸(むざん):内面的に恥じないこと
無愧(むき):人に恥じないこと
嫉(しつ):ねたみ
慳(けん):ものおしみ
悪作(あくさ):後悔
睡眠(すいめん):眠りに陥らせる精神作用
掉挙(じょうこ):精神的な躁状態のこと
※沈(こんじん):精神的な鬱状態のこと ※=りっしんべんに「昏」
忿(ふん):いきどおり
覆(ふく):罪をおおい隠すこと

・・・Kozyは、三界の四諦における煩悩=見惑は断ち切れないのが基本だと捉えるが、人間の構造的な問題を自分を通じて知ることにより、初めて具体的に起動する煩悩に対して抑止力を持つ修行が出来る。修行を通じて自分個人の中で特に何に留意が必要かを感度を上げて知ることにより更なる抑止力が醸成される・・・自己の心身に対する感知または内省の能力を磨き上げることが大事・・・つまり、経験・実学が大事

・・・このことが人間という愚かな動物への慈愛の心を醸成していく。つまり、欲深いのが人間の本質であるが、集団の中で生きることは個人の欲深さが自滅へと導くメカニズムの理解を促すが、煩悩というものに縛られ愚考を繰り返す。しかし、その失敗からしか行動の伴うメカニズムへの理解は体得できない。また、一度の失敗では不十分であり何度も失敗することでしか学べない動物であり、愛しみを禁じえない慈愛の心を持てるようになる・・・・

・・・親密な人の痛みを人間は自分自身でも感じるように脳は出来ている・・・感受性の高さとは親密性の高さとも捉えることが出来る・・・周りに心を閉ざすことは、感受性という五感で感じる能力を低下させるものであり、自己をより強い煩悩の世界に追い込むことでもある・・・・

Kozyは、つくづく感じることとして、人間はそれまでの生物にとって正にカオスに陥るパンドラの箱を、進化という名の下に開けてしまった・・・しかし、それが故に、人間の脳は飛躍的に深化せざるを得なかった・・・なんとなれば、常に矛盾への対峙を強いられ、その絶対的な矛盾を同一化する思考を強いられている、また、自己崩壊を防ぐ為に、そのつどのあるべき姿という中庸を模索する思考も強いられている・・・・・また、思考=試行でもある・・・

これは逃げられない現実であり、これが生きることである・・・それ故に快楽は生きる目的ではなく、強いられた修行の継続の為のエネルギーの維持・増強の手段でしかない・・・・

では何が幸福な人生なのかという疑問がわいてくる・・・答えは、自分が固有に持っている優れた能力とは何かを知り、優れた能力であるが故に、自分の所属するすべての集団に一番大きく貢献できることで生活が成り立つこと・・・なんとなれば、それが最大の満足感と充実感を、集団の構成員の満足感と充実感に満ちた笑顔を通じて、自分自身で、脳内で感じるように出来ているからなのである・・・・これが生きる目的なのである・・・・

しかし、人間の煩悩という強欲さがあるために、あって当たり前になると、更に求める・・・人類の歴史を見るに、いたちごっこでもある・・・また、親密性とは関係性の深さに依存するが故に、一番関係性の深い家族を大事にしたくなる・・・しかし、家族という集団も、もっと大きな集団に依存している・・・・・

| | Comments (0)

January 11, 2008

対峙能力を時代は求めている・・・

本Blogでは、すべての記事とは言いませんが、“対峙”という言葉を何度も使っています・・・最近、検索ワードで“対峙とは”というのが散見されるようになってきた・・・・正直言って対峙という意味がわからない人が多いことに危惧を抱くと同時に、対峙するとは如何いうことなのか、また、その能力の必要十分条件とは何なのかを改めて掘り下げて見る必要性を痛感し始めた・・・・

対峙とは表面的には"face to face with"とか"face up to"、つまり向き合うという意味であり、対象は敵とか怖いものとか不安というものである・・・・この含意とは、絶対に目を背けない、武者震いする覚悟を持って正対する、さもなければ、負けてしまい自分が命を落とす・・・正に不退転の覚悟を持ち、退路を断つ覚悟が必要である・・・本来は軍事用語でもある・・・

参考まで、英語では“Break the bridge”= 退路を断つ、・・・敵軍と戦うときに河を背にして陣を組むが自ら逃げ道である橋を壊す事からきている・・・・また、“Keep one's head up high”= 誇りを維持するというイディオムがあるが、英語では顔や頭を上げることはそのときの心の状態を表しているとの捉え方がある・・・・

では、対峙能力とは、また、その必要十分条件とは何なのかを掘り下げてみたい・・・・・

1.人間にとって一番の恐怖感は死の危険性であるが、その死をも恐れずに、目の前にある恐怖の対象を見据えることである。この恐怖とは避けられない現実として目の前にある認識を持って、目を背けないこと・・・・これが必要条件である・・・

2.目の前の現実のすべてを見逃さずに直視して、十分な観察をして、相手を正しく理解をして、如何すべきかを洞察すること・・・・これが十分条件である・・・・

このことを更に掘り下げると、自軍と敵軍の両方の長短と長短の両方のメカニズムを知り、長所を最大に活性化して、短所を最小化することを洞察出来ることが十分条件なのである・・・・

必要十分条件をもっと掘り下げてみると、必要条件の鍵である、人間が恐怖に打ち勝つとは、ただ単に生物的な死の恐怖だけではなく、自分自身が最大限に活かされることが出来なくなる恐怖感の両方を抱いて、立ち向かう必要がある・・・人は古来自由や愛する人の為に命をささげた・・・・・

上杉謙信の言葉のように、逃げることが出来る戦場では。生物的な死だけを恐れて戦うものには死が待っている。しかし、ここで負けるようでは生きていてもしょうがないと考える事が出来て、死なんとするものは生きのこる・・・・・また、退路を断つ戦術は、死に物狂いで最大のエネルギーを誰でも生み出すことが出来る・・・・退路を断たれた状況が、正に逆境そのものでもある・・・・

つまり、退路を断つという方法論と、もう一つは自分にとって自分であり続ける為に守りたいもの、または、失いたくないものを自分自身ではっきりつかめる事が鍵になってくる・・・・残念ながらこの両方とも、経験を通じた体感という、情動的な理解がないと実現しない・・・より深く広い経験をつんでいく・・・チャレンジ精神が必要となる・・・

さて、十分条件である自軍と敵軍への両方への理解とは、本Blogのテーマでもある、自分の視点である第一の目と相手の視点である第二の目を常に意識して起動させ、如何あるべきかを考える第三の目で、何事にも囚われない目線で現実のすべてを直視して、そのメカニズムを冷徹に理解し、対処法の仮説を持って検証していくことに他ならない・・・・

これこそが社会における自己学習能力の本質でもある・・・・・また、対峙能力=胆力 + 知的活動 とも表すことが出来る・・・・

このように整理していくと、対峙という言葉を自分自身が何度も口癖のように使用している理由が自分自身でクリアーに整理できた・・・・時代は、正に“対峙能力”を求めている・・・・・

| | Comments (0)

January 07, 2008

日本人の固有のよさをもって今年の抱負を見直そう・・・・

日本では本日が仕事始めの人が一番多いと認識している・・・つまり、今年は9連休の人が多かったということである・・・昨年が“偽”の年てであったが故に、この漢字の含意を理解している人は少ないと思うが、“偽”とは、もともとは変化して他のものに変わるという化ける(ばける)という意味であった・・・このことを体で多くの人が感じた年であったと個人的に捉えている・・・

つまり、言い換えると変化の胎動を感じさせられた年であり、多くの人が、このままではいけない!!!・・・と感じて、年末年始に種々考えられたのではないだろうか・・・・また、諸悪の根源の側面を持つマスコミの世界においても、考えさせられる番組が例年になく多かった、または、そのように感じさせられた・・・

さて、新年にあたり、皆さんは何を感じ何をしようと決められたのでしょう・・・・・・

年末にWowWowで“ローマ”のユリウス・カエサルの前後のローマ時代の連続ドラマがまとめて再放送され、TBSでは3日に“古代ローマ千年史”などを見ると、ローマ以前のギリシャやエジプトの時代を含めて、日本においては弥生時代のときに、既に、素晴らしい文化を謳歌していた・・・中国も然りである・・・

日本は正に世界の後進国であった・・・また、文化の発祥の裏には異なる文化を持つ人々の交流の拠点であることが、必要条件であることも読み取れる・・・また、番組では批判を恐れてストレートな言い方をやめていたが、ローマ帝国の栄華は多神教信仰が齎す、異なる価値観を尊敬して認めるローマ人の寛容さから生まれたが、キリスト教のローマ帝国への浸透により、また、その一神教のキリスト教を為政者が統治に利用して、広まると時を同じくして衰退が始まってしまった・・・・・

また、番組名は忘れたが、中南米に流れた人類は東洋系であることは知られていたが、脳の骨格の特徴から見ると、日本の弥生人の特徴と合致するとの報告があった・・・その人達が、今の科学でも解明できない黒土と呼ばれる肥沃なな土を作るノウハウを築いていた・・・これはおそらく何年もかけた試行錯誤の中、および、発見を通じて作られたものであり、この土の製法が解明されると多くの土地が耕作に適するようになり、食糧難は解消するだろうとの事であった・・・

弥生人の持つ潜在的な素晴らしさに改めて感銘を受けた・・・

Kozyが現役時代に途上国の顧客へのプレゼンでよく使った言葉として、先進国は技術革新の恩恵を受ける為にはそれまでの投資を減価償却の必要性が仇となり、直ぐにはグレイドアップが出来ない構造的な問題を抱えている・・・途上国は最新の技術の商品・サービスをよりやすいコストで享受することができる・・・国家として千載一遇のチャンスである・・・と述べて最新の技術の商品・サービスの購入を促していた・・・・・

つまり、ある視点で捉えると、日本という国は弥生時代という時代が、何千年も長かったが故に、ほかの当時の先進国よりも、集団生きること、自然と共生して生きることに対して、より熟成した文化を築いていたのではないだろうかと強く感じた次第である・・・・

また、当時の文明国から入ってきた、技術、文化の両方に対して、弥生時代は農耕穀物だけでなく多くのたんぱく質などは海産物から取っていた所為だと思うが、神は海から来るとの島国特有の価値観を築いていたと感じてならない・・・・

それが故に、海を渡ってきた技術や文明を、神の啓示だと思って、たとへ絶対的矛盾の起きることでもよく観察をして同化をはぐくむことが出来るようになった・・・・つまり、異文化への尊敬または畏怖の念が、多様性をはぐくむ土壌を作ってきた・・・

そして、海洋技術および航空技術、そして、最近では通信技術が、時差をなくし、国境をなくし、自由で多様な交流を日本に齎した・・・・それは、鎖国をしなくてはならなくなった江戸時代前から変化してきて、江戸時代に日本固有の文化の熟成を受けて明治の西欧化政策を受けたなかで、上手く変化への対応をしてきたから今の日本がある・・・または、かっての“Japan as No.1”の栄華を極めることが出来た・・・・・・

ただ面白さに突き進んできたフジテレビの番組の中で、フジテレビのアナウンサー自身がいわく、フジテレビの唯一の教養番組といわれる毎週火曜日の深夜に放送される“ニッポン@ワールド”が1月1日の0:35からも正月であるにも拘らず放送され、Kozyの好きな番組であるが故に見ていたら、その中の米国人の日本人の奥さんと結婚して日本に住み着いて大学教授をしている人が、以下のような面白い捉え方をしていた・・・・

つまり、日本の文化は受信者責任文化であり、米国は発信者責任文化である・・・受信者責任文化であるが故に日本は平和を求め、米国はイラクを攻めたと捉えていた・・・むしろ、受信者責任文化にもっと誇りをもって世界に広めるべきである。しかし、このためにははっきりと発信者責任を意識して発信する必要がある・・・・つまり、切り替えが必要なのである・・・

この捉え方は、実にKozy自身も新鮮は感動を覚えた・・・以前、日本は恥の文化、そして、西欧キリスト教社会は罰の文化とのポストをしたことがあるが、この二つの捉え方は、受信者責任文化は恥の文化と同じ側面は多いが、罰の文化と発信者責任文化は、似て非なるものなのである・・・・・

しかし、時と場合の応じて受信者責任から、発信者責任に切り替える必要がある・・・一方に偏るのは問題であり、受信者責任文化はファシズムまたは全体主義に走りやすい構造を持っている・・・また、発信者責任文化は多様な文化を認めない押し付けに走る構造的な問題を持っている・・・・・

TBSは、番組を通じてのメイン・テーマとして“寛容の大事さ”を謳っていたと捉えているが、相手へ同じ人間としての尊敬が寛容の本質として捉えていたが、日本語は、音読みおよび訓読みの両方があるが、これは、日本古来の和語といわれる漢字を伴わない言葉との正に共生を目指したものであり、“かんよう”を和英辞典で引くだけでも、寛容、肝要、慣用、涵養(=磨く・育成する)などの言葉が出てくる・・・

つまり、和語と共生した日本語では、寛容とは、自身を涵養することが肝要であり、このことを慣用化することが肝要であると言っているのではないかという気がしてくる・・・・・確かに寛容は大事なキーワードである・・・

イタリア語では寛容はClementis(?)という言葉になるのだが、英語では、GenerosityとかToreranceというより、Clemencyつまり、“forgiveness and less severe punishment”(権力を持った人が)許しそしてを罰することに厳格でなりすきないこと・・・・日本語では慈愛という言葉が一番ぴったり来る・・・・

実は、中国漢字にも発音が先で漢字が後の形声語があり、子、茲、滋、慈は一系列の字であり、昔は、子しむ=いつくしむともよみ、慈しむおよび愛しむと同じ意味でもあった・・・余談だが、それ故に、女性には最後に子という字をつけて、脳の構造特性的に強い女性にのみ、“子”という漢字をつけていつくしみをもってほしいとの願いがあったのである・・・

念の為だが、“慈”とは、白川静の常用字解では、元来はふえる、養うの意味があり、その養う心情を意味する。それが、いつくしむ=大切にする・かわいがるという意味になり、また、情け、哀れみの心の意味に用いる・・・・

つまり、寛容の心とは、人間を分け隔てなく慈しみ/愛しみお互いに共生を目指すこと、一神教のように異なる神と人を拒否したりしては、いけないのである・・・・そこには自己成長だけでなく人類社会の崩壊、ひいては、地球の生命力の崩壊を導く・・・・

日本人の間ですら、地縁差別、学閥・学歴差別、世代間断絶、地域間残断絶、貧富の差の差別、部落問題・・・差別は善ではない・・・違いには異なる理由があり、また、異なる価値観があるのです・・・しかし、皆、同じ人間なのです・・・・社会はその構成員との相互作用により成り立っている・・・・

この点だけは、今年からは肝に銘じてほしい・・・また、歴史を見れば解るように、人間は自己効力感を上げたいが為に、また、多義的な価値観の受け入れがし難いが故に、集団のおろかさが形成されやすい構造を持っている・・・この人間、つまり、自分自身の構造的な問題を各個人が強く認識することから、改善が始まります・・・・

年頭の新たなる抱負を、地球および世界の中の日本人として、上述した固有のよさを、再認識をして、活かすことを目的として、見直して必要なら修正してください・・・・・

| | Comments (0)

January 01, 2008

新年の挨拶と近況報告・・・・

2008年の新年の挨拶と近況報告をWebでさせて頂きたいと存じます・・・というのは、昨年秋に、新しいNote PCが、一年の保障期限を過ぎて四ヶ月後にHDDが突然物理的に壊れてしまい、まだまだ大丈夫だと思い込んでいたので、また、今年筆王に替えて新しいソフトを購入を予定し、既に昔のソフト廃却した後の事故であり、復旧が出来ませんでした・・・・

それ故に、今年の年賀ハガキは、出せなくなってしまいました・・・今年受け取ったものから再構築をする必要があり、今年の年賀の挨拶は、Web上でさせて頂くことといたしました・・・・

年賀ハガキが着かない事によるご心配をおかけして申し訳ありません・・・ここで、謹んで新年明けましておめでとうございます・・・今年も、皆さんのご健康とご多幸を祈念させて頂きます・・・・・

さて、Blogの定期的な訪問者の方もご記憶があるかと思いましたが、昨年は本の出版をすることを目標としてきましたが、また、それ故に、実は昨年7月には専門ソフトを使用して書き上げたのですが、どうも、すっきりしなくて、校正を通じて加筆訂正を考えておりました・・・・

すっきりいかないポイントは、大学院に通っているときに、現在の若者との交流を通じて、それまでの人生を通じて無意識に構築されてしまったバイアスの修正をしてきたつもりでいましたが、心理学の専攻者に偏っていた為、Blogでも何度かポストしましたが、心理学を専攻したい学生には、独特の逃避・回避動機があり、母集団としては特殊な集団であるが故に、もっと幅の広い人との交流を通じて、自己内のバイアスの修正が必要だと痛感した・・・・

また、この原稿を書く為に出典等を調べたり、新しい論文を読んだりして、結果として運動不足による10kgs以上の体重の増加と体から発揮される気のエネルギーの低下を痛感したので、何か肉体労働をしたくなり、検索をしましたが、すべて50歳以下であり、肉体労働をしたくても出来ない・・・しかし、肉体を追い込むことは、私の知る人達の意見を総合すると、60歳を過ぎると危険すぎるとの問題があり、更なる検索をして、夜間の主に交通警備などのガードなら可能だと発見しました・・・・

昨年6月より始めてみましたが、夜勤の仕事に従事する人は、二十歳前後の専門学校生を含めた学生、30代のフリーター、そして、ダブルワークといわれる自分の仕事を持っているが収入が足りないが故に働く人に三分される・・・中には大きな借金を背負いその返済の為に働いている人もいました・・・参考まで、日勤でガードを修行にしている人は、アルバイトの場合は、学生を除くと人格的に崩壊をきたしている人が多く、異常者が多い・・・

今までの接することのなかった人達であり、フィールドワークの視点で捉えると、サラリーマン社会では、知りえなかった現実社会の学習としては最高である。・・・現代社会の問題点の構図を理解するには非常に有益であった・・・それが故に、書き上げた原稿の修正は、やはり必要であり、その修正を遣り始めた矢先で、HDDが壊れ、消失したので、昨年内の出版計画はもろくも挫折してしまった・・・・

心理学と脳科学と自身の経験を通じての暗黙知の集大成としての出版としては、むしろ、不幸中の幸いではあった・・・しかし、知名度を上げて、本業に活かそうとした戦略的な方策は延期をやむなくされた・・・やはりより幅広い社会での相互作用のより深い理解がないと、自分の望む著書は意義が半減するのである・・・

一方、ガードの仕事は少な目の運動と立っているだけの側面があるが、実は立ち続けていることは実は曲者であり、非常に疲れる仕事であったが、体がなじむのである・・・体がなじむということは知らず知らずのうちに姿勢が良くなっていく・・・姿勢をよくするそれまで使っていなかった筋力の増強をするだけで、やせてくるばかりでなく、腰痛もちのKozyであるが、腰痛が治っていく・・・腰痛とは多くの場合、あるべき体の重心の位置がずれていることに起因することが体得できた・・・・

また、夜勤の交通規制の場合は、規制時間内で終わらせる必要があり、仕事に余裕を見ている為に、通常は夜中の2時前後に終わることが多く、始発までの時間つぶしにインターネットカフェに何度か入り、どのような人がネットカフェ難民になっているかを調査することも出来た・・・しかし、ネットカフェで時間をつぶすことは時間の無駄でもあり、お金の無駄でもあり、体を肉体的に追い込む為に、折りたたみ自転車で行きは電車に持ち込み、帰りは自転車で帰ることを思いついたので、これを実践した・・・・

はじめは、片道一時間ぐらいのところに限定していたが、この距離を延ばして、浜松町と銀座の間から二時間以上かけて大倉山まで自転車で帰る運動をし始めた・・・二十回ぐらいは25km前後を自転車で走ってきた・・・・

このように体を追い込むと、それまで自分がぼんやりとおかしいのではないかと言うところが異常をきたしてきて、種々の検査の結果、自分自身が現役のときからこの病気が故に、酒もやめていても、肝機能が低下して高脂血症になり、免疫力も落ちてきていたことが判明した・・・・この病気は自覚症状はない場合が多く、今年からの前厄年を前に、現在では既に大幅に改善してきている・・・発見できなければ、正に肝硬変に移行していたであろう・・・

ガードのバイトは、ある時に違法にも、9時間休憩なしで立っていた時に骨を痛めて四ヶ月でやめたが、四十路は、よそ道と読んで自身のバイアスの修正をするべきといってきたが、サラリーマンは退社後は、それまで接することのなかった人達との交流を通じて、自己内のバイアスを修正すべき時期である・・・しかし、毎日働く体力が無いが故に、また、完全に夜型になってしまったので、自分の仕事が出来なくなり、結果的には、将来の為の本業においては、金銭的な体力を浪費してしまった・・・・

昨年は勝負の年であると位置づけていたが、将来の健康の維持には貢献したが、今年は金策でも動かなくてはならない状況に追い込まれている・・・正に正念場を迎えている・・・・

しかし、この状況に追い込まれて、妻が非常に協力的に変化してきた・・・やはり、自分の伴侶の選択は間違いでなかったと思える・・・逆境が夫婦の愛を強めるとも感じている・・・この点では、むしろ幸福感が増強されている・・・・

本Blogとしては、今年も、今までどおり、人間の人間でいられる所以である、人間の希望の維持能力に関することを種々の視点からの説明をしていきたいと考えている・・・・いつまで続けられるかは、今年は正念場であるが故に不明であるが、とにかく遣れることを粛々と取り組んで生きたい・・・・

最後に昨年一年で本Blogの記事にブックマーク・RSSをしていただいたかたの集計をしましたが、約1150名ぐらいになった、・・・ご愛読ありがとうございます・・・・・・今年も皆さんの言葉に出来ないもやもやを言葉で整理していきたいと存じてます・・・・

| | Comments (0)

December 28, 2007

What is changing(17)・・・・来年をポジティブな視点で見てみると・・・・

2007年度の漢字が[偽]になったが、白川先生の常用字解を紐解くと、人が為すことだから偽りが生まれるというような解釈は、間違いであり、本来は変化して他のものになるであったとの由・・・・この字の本来の意味をどれだけの人が知っているかは大いに疑問ではあるが、1990年以降、むしろ、1989年の昭和天皇の崩御を契機にして、混迷の時代をすごしてきたが、確かに、既に、今年は一部で変化している・・・・

あるべき姿への揺り戻しが起きてきている・・・心を失っていた時代から、心を取り戻しつつある・・・今年は落ちるところまで落ちた年であったとも言いえるが、それが故に、変化の胎動が始まった年であるといいえるであろう・・・・

では、それらの変化の胎動とは何なのか、今年一年をポジティブな視点で振り返り、何が起きてきたかを列挙してみたい・・・ただし、順番には意味はありません・・・

* 不二家に始まった食品偽装は、内部告発を促進した・・・企業の社会的な貢献責任(CSR)についてこうあるべきとの机上の論理ではなく、否定リストを作成し始めた・・・無責任な専門家といわれる人達の論議のための論議ではなく、つまり、CSRとは、より大きな視点でのあるべき姿への理想論では何も生まれない・・・社会はそれほど単純なものではない・・・現実的な中庸としての、より理想に近づくための実践なのである・・・

そこに生まれるのは、むしろ理想は多くの人はわかっているが故に、これだけはやってはいけない=否定リストの作成なのである・・・念の為ではあるが、否定リストには範囲のあいまい性がある・・・つまり、中庸が大事であることを示唆していることでもある・・・・・

個人の為から、家族の為、そして、社会の為、この社会の為から、更に、地球を守るため、そして、地球が守られる事が、人類社会に還元され、家族へ還元され、個人に還元される・・・善の相互作用への理解が深まってきている・・・・・

* “国家の品格”および“女性の品格”の流行とは、日本の恥の文化の再構築の呼びかけを行ったものであり、そのメッセイジに答えた人が増えたとも解釈できる・・・また、何が善なることなのかを民衆に問うた本でもある・・・・・

* そして、“ハンカチ王子”および“ハニカミ王子”への異常とも言いえる人気は、民衆のあるべき姿としての生きる姿勢への支持でもある・・・・おばさん達への人気の背景には、このような息子がほしいという願望がある・・・この願望は、子供を守ることに偏重しすぎた教育への反省が存在している・・・“守る”と“支える”のバランス感覚への再考を齎している・・・

* 利己的な生き方への反省として、家族を大事にする価値観が急激に台頭してきている・・・“東京タワー”現象が支持され、歌の世界でも、家族への感謝の歌が非常に多くなった・・・かっては、マザコンといわれて全面的に悪いこととしていわれたが、心理学的には、幼少期からの母親(またはそれに変わる人)との信頼関係がなければ人格崩壊を起こすのである・・・・

しかし、いつまでの親の価値観に囚われることは、自己成長の阻害要因になる・・・つまり、巣立ちは必要なのである・・・

人間にとっての最初の集団が家族であり、集団の中でしか生きれないのが人間であり、この家族集団を通じてより大きな社会集団の中で生きることを学ぶ・・・つまり、家族の集団が基礎になっている・・・この基礎を蔑にする様では、自己成長も幸福も獲得できない・・・・家族の崩壊の事件を通じてこの大事さを学んできたと捉えている・・・・この家族愛の学習が愛他性を齎すのである・・・・

* 渡辺淳一(?)の“鈍感力”も大いに支持されたが、渡辺さんは経験を通じて書かれたと思うが、これは、問題意識として、平和の代償としての人間の脆弱性を、結果として気づかせたと捉えている・・・・教育として本当に何が必要なのか、また、本当の優しさとは何かを投げかけた・・・・

* Zardの坂井泉=蒲池幸子さんの死は、あの素晴らしい歌詞の裏に秘められた人間の弱さをファンに考えさせる機会になった。実践の大事さを問うた側面を持っている・・・それが故に、KozyのBlogの中で何千人の人が訪問して読んでいかれた・・・・・

* 無記名のWebの中では、個人に対して攻撃的意見や文句だけを言う人が非常に増えきていたが、これは、自己成長を放棄した集団でしかない。全世界的に記名、または、本人が確認される方向に動き始めた・・・

* MR.KYという流行語を生んだ安部首相の登場は、空気が読めないことの問題と同時に、空気に流されないことの重要性も民衆に知らしめる結果になってきている。また、リーダーシップの本質は自己犠牲であることを民衆は学んだ・・・・奇麗事の言葉だけでは、何も生まれないことを学んだ・・・・

* サッカーの日本代表監督に就任したオシムさんの個人的な人気は、日本人には日本人の特性を活かした勝ち方を考えるべきだとの大きなメッセイジへの共感が大きく貢献していると捉えている・・・このことは、日本への将来への希望を与えたと同時に、個人には個人の特性を活かした自己成長を促した側面があり、自分の特性は自分が一番知っていることであり、自分で考え自分で選択する、そして、自分で行動することの重要性を気づかせてくれている・・・・・

まだまだあると思うが、本Blogのメインテーマでもある日本の新しい規範についての見直しが、まだしっかりと出来ていないが、出来つつある・・・来年は、Revamping Yearになると見ている・・・Revampとは、修正のために変化するという意味であり、大きな潮流の変化が出てくると見ている・・・・

| | Comments (0)

December 20, 2007

お笑いの視点で今年を振り返る・・・・

今年は何がおきている、または、変わろうとしているのかを考えるときに、個人的には、昨年は“欧米か”が流行、今年は、小島よしおの“そんなの関係ない”が大ブレイクしたが、この二つのフレイズがKozyの頭をよぎるのである・・・・

これから述べることは、Kozyの独断と偏見に基づく見解であるが、少なくとも一人はこのように感じているということである・・・・今もこれからも時代の変化を読み取るために、“歌は世につれ世は歌につれ”の言葉の重みを感じて、流行歌の変遷にはいつも気を使ってきた・・・・

最近、ふと気がついたのが、良くも悪くも、流行歌の変遷を見ることの大事さの裏には、女性のほうが男性よりも観察力があり、時代の変化を一番早く感じ取るということ、そして、男性は女性にもてたいという男性ホルモンに多くの人が縛られているが為に、女性の求める価値観に迎合しようとする構造的な問題があるが故に、これらを体感した先人達は“歌は世につれ世は歌につれ”という言葉にたどり着いた・・・と強く感じるようになった・・・

また、以前アップロードしたが、オリエンタルラジオは、お笑いにラップを取り入れ、ラップのリズムには普通の大人たちはついていけない・・・つまり、ラップのリズムに乗せたメッセイジは、若者だけに染み入ると同時に、大人が解らない=ついていけない独自の情報伝達手段という側面を持っている・・・これに若者が感応したので、ブレイクした側面を持つ・・・・

また、お笑いは何年か周期の栄枯衰退を繰り返しているが、最近のお笑いの受けている時代が以前の周期より長く感じている・・・・さんまと紳助は別格として、それ以外の中堅は、独自の能力によりプレゼンスを維持している人は別として、急激に年齢の低下が起きているように感じる・・・つまり、十年の下積みは、大きな必要条件ではなくなってきている・・・・

つまり、若いアイドルにも代わる存在にもなってきている・・・それ故に、お笑い芸人の人気の変遷も時代の変遷を表していると捉えるべき時代に入ってきた・・・歌謡曲だけでなく、お笑いもよく注視していきたい・・・・

また、時代の社会的文脈の影響から、バブル世代、就職氷河期世代、そして、現代の超バブル時代世代という層が出来てきていると感じてならない・・・・・そして、団塊の世代の層は、人数が多いが故にいつも影響力のある世代でもある・・・・そして、世代間ギャップは人類史上一番大きくなってきていると捉えるべきであろう・・・

これまでの世代層のギャップより、論理的には技術革新のスピードが人類史上一番速い現代では、むしろ当然のことなのであろう・・・・何千年の昔から、“今の若いやつは”という言葉が残されているが、人類の歴史を振り返っても、価値観の多様化と価値観の変容は技術革新がDriverとなっているので、単に一塊として“若いやつ”という言葉では括れない時代認識が必要だと捉えるべきではないだろうか・・・

最近つくづく感じるのは、日本の笑いの本質が、正に欧米化してきて、ユーモアの世界に入りつつある・・・冒頭で述べた、“欧米か!”と“そんなの関係ない”は、ユーモアの本質である人間の構造的なおろかさを笑い飛ばしていることに繋がってきている・・・

欧米か!・・・とは、言葉の意味をはっきり理解せずに、また、理解できているとしても聞く人が理解していないカタカナ言葉がやたらマスコミにも出てきて、その言葉を正しく理解せずに使用している人が多くなってきている・・・一体何の話を何の目的で話しているのか、まったく時間の無駄でしかない・・・

確かに、言語にはその背景の文化の違いの表出があるが故に、英語では一語でも日本語では多数の言葉が含まれる、また、その逆もあり、時には上手く日本語には出来ない場合もあるのは理解できるが、日本語で言葉の規定を丁寧にすることが大事になってきている・・・MR.KYの安部前首相はこの作業をあまりにも怠ったとも捉えられる・・・・

しかし、好き嫌いは別にして、Web上の情報のマジョリティーは英語であり、ICT=information Communication Technologyの恩恵を最大限に活用をしようとすれば、英語は必須であることは避けられない・・・それ故に、格差が広まることも避けられない・・・・

一時の恥で、解らなければ説明を求めればよいのだが、見栄があり、聞くことが出来ない・・・そして、一生の恥をかくことになる・・・・このおろかさを笑い飛ばしているのが、欧米か!の本質であり、いかにも教養のない様に見えるタカンドトシが突っ込みをするから更に面白い・・・・

そんなの関係ない・・・・これは解釈でいくつにも分かれる気がする。つまり、少なくとも未熟者と熟達者の二つの層に異なる意味で受けていると捉えている・・・・

未熟者の間では、この変化の激しい時代が、多様な価値観を容認して、また、かっては正しいと思ったことが変化してきたりする現代の中では、殆どが統合失調症状をきたしていて当然であり、人により言うことも異なったりする経験をつむ中で、自分に都合の良い解釈をする、そして、聞く耳を持たなくなる(回避行動に走る)ので、正に心の叫びとして“そんなの関係ない”を繰り返したくなる・・・

また、そこまではっきりいえない人達にも、自分にもどかしさを感じて、すっきりするギャグとして受けていると捉えている・・・・一見おばかな雰囲気の小島よしおが早大の教育学部を出ており、そのかれでもそんなの関係ないといってくれていることに安堵感を覚える・・・・

もう一つは、熟達者未満の間では、この変化の時代の中で、世代間の価値観の乖離が大きくなり、普通の人は時代時代の文脈からなかなか開放されないが故に、また、保身に基づく守旧派の意見との衝突が増えていると察せられ、説明しようとしても、平和な時代に生きてきた人には楽観性はあるが忍耐力がないので、掘り下げて根気よく説明することが出来ない苛立ちを解消する言葉がそんなの関係ないにも繋がる・・・

また、たとえ熟達者でも、言葉の限界を知り、人の価値観の変更は難しい故に、そんなの関係ないという言葉に逃げたくなると同時に、言葉を超えたメッセイジとして期待を抱く、流行ってほしいと思う・・・・また、これを言ったらおしまいであるという自己への戒めの言葉と捉えている人達も非常に少数派かもしれないがいるのである・・・

“欧米か!”も“そんなの関係ない”の両方とも現代という時代の混迷を表出した言葉である・・・・

小島やすおの場合は、更に、体の動きの面白さは子供に受ける、また、絞られた体はメタボリックシンドロームの時代には大人に好感が持たれる、また、早大を出てここまでお馬鹿なことが出来ることもインパクトが大きい、また、ラップのリズム感も取り入れている・・・どこまで認識して売り出しの戦略を練ったのかは不明ではあるが、見事である・・・・

さて来年は一体、誰がブレイクするのか、また、そのテーマは何なのか楽しみである・・・人間は構造的には、特に集団の一員としての行動は、集団のおろかさに縛られるが故に人間のおろかさは山のようにある。それが故に、、来年は何が来るかは読めないが、いづれにしても来年も、人間のおろかさを笑い飛ばすものが流行ると見ている・・・

つまり、混迷の時代には、人間のおろかさを笑い飛ばすことにより、心のエネルギーの充電が必要であり、いま、親父ギャグ=駄洒落でなく、ユーモアとしての笑いが求められている・・・また、このことは人間の困窮時に於ける復元力を意味するレジリエンスの大事な構成要因なのである・・・・

| | Comments (0)

December 19, 2007

スキル重視教育への警鐘・・・・

先日、ある会社のOff-JTで、戦略の設定方法の講義をしているとの話を聞いたが、先ず事実をつかみ整理したあとに、あれこれというものであった・・・・最近はスキルを重視するOff-JTが増えている現状を見るに、正に、一時期いわれた“マニュアル世代”という言葉を思い出してしまう・・・・

基本的には、自分で良いやり方を考えることを放棄させる学習であるという点では、スキルもマニュアルも同じ側面を持っている・・・企業においてマニュアル重視というのは、ISO-9000シリーズが、日本におけるTQC=Total Quality Controlのすばらしさを分析して、欧米が日本に追いつきたいという側面で作成されたにも拘らず、欧米企業が、ISO-9000シリーズの取得をベンダーに義務付けたが故に、日本も追従せざるを得なくなった・・・・

しかし、現場を見ていると、当時の若者達が、正に、マニュアル世代であったが故に、日本においてもISO-9000シリーズは急激に浸透していった・・・・この結果日本に持ち込まれた文化は、指定された項目しかチェックをしないという最悪の文化が出来てきた・・・・

この事は、仕事の遂行において一番大事な一から十までの一連の業務、最低でも自分の部署が責任を持っているプロセスの前後のプロセスでは何を如何やっているかを知らなくては、本当の仕事の理解はできないのである、つまり、全体の業務の分担のメカニズム等々を知らなくても仕事の出来る状況を作り出していった・・・・

Kozyは、マニュアルを全面的に否定するものではないが、日本の産業の強さは、少なくとも日本人だけの職場においては、英国におけるWorking Class,また、米国における多民族国家に伴う多様な価値観の違いと教育レベルの格差、そして、欧米とも、Managerは専門職として独立している色彩が強く、正に管理職と労働階級の溝は深い状況とは異なるが故に、日本には二つのチーム・ワークが育っていたのである・・・

一つは、同じ部署内のチーム・ワーク、そして、もう一つは日本のチーム・ワークの強さおよび特色である関係する他部門とのチーム・ワークである・・・・このことは、TQCを進めるときには、自部門内だけの改善では限度があり、全社トータルとしての効率化・改善活動なのである・・・

マニュアル化は、人間の持つ怠惰性とマニュアルどおりにやっていれば責められないと側面から、全社の全体の流れを理解することを怠るようになる・・・

Kozyは、ISO-9000シリーズは、欧米の日本企業の弱体化を意図した戦略的な、実の巧妙な、じわじわ蝕んでいく麻薬のような攻撃であったと捉えている・・・・

また、心理学的にはマニュアル化は脳の弱体化を招く・・・つまり、脳が使われる機会の略奪であり、老化の促進でもある・・・

Kozy自体、少なくとも部長異常の人達は、経験的に回りも見ていると、ほとんどの人があるべき姿、遣らなくてはいけない事を非常によく理解している・・・しかし、これらに取り組み成し遂げるまでに直面しなくてはいけない恐怖感に関しても同時によく理解しているが故に、恐怖感に縛られ実行に移せない・・・・これが実態なのである・・・・また、成功回避動機があるように、成し遂げた後の仕事の変化が自身に求める変化を拒絶する人達もいるのである・・・・

話を戦略策定に戻すと、あるべき戦略策定が出来ない集団は、想定される恐怖感のために存在する事実が見えていない、または、不都合な事実を見ようとしないので、結果としては不都合な事実は見えないのである・・・・本質的な問題はこの点なのである・・・

また、表面的な事実を整理することが出来ても、その裏に隠されているものを見抜くことが出来ていない・・・つまり、陰陽の視点、または、表裏一体の視点での両面を見ることが出来ていない・・・・これも大事な事実なのである・・・

つまり、戦略の策定には、存在する事実をすべて網羅できれば、その事実の機能と各事実間の相関・相互作用を掘り下げて理解をすれば、自ずと採るべき戦略は見てくる・・・そして、幾つか見えてきたときには、選択する戦略の判断基準を何にするかを議論することが大事なだけなのである・・・・

スキルはスキルで大事であるが、スキル自体はそれまでと異なる視点で考えることも有効であるということでしかなく、下手にスキルを過信すると、思考パターンにバイアスをかけることと同じになる危険性をはらんでいるのである・・・

トヨタやホンダの見える化は、正に、存在する事実を見落とさないようにする、多次元で総合的なアプローチをしている・・・しかし、あるべき戦略の再策定のための事実確認の整理は、不必要な恐怖感を起動する不適正な社内文脈への介入と個人の自己成長のレベルの二つに大きく依存するのである・・・・

一つの例を挙げると、誰かが何かを伝えようとした時に、トップが話の途中で、先読みをして、それはこうこうなので却下し、更に部下をおまえは甘いとなど突っ込んだりすると、誰も何も言えなくなるのである・・・また、関係者の間で共有化されていない事実というのは、普通の人には論理的に説明することは往々にして難しい・・・しかし、このような普通の人が発言しようとした内容は、大いに傾聴の価値があるのである・・・勇気を出していいたいぐらいの重要性認識を持っていることなのである・・・

傾聴ということは即ち、相手への信頼と忍耐力であり、この忍耐力を持たないトップは、トップ失格なのである・・・とにかく最後まで意見を言わせて、すぐに否定・批判するのでなく、何故にそれが大事なのかを掘り下げる議論をすべきなのである・・・そして、それでもトップとして納得できないときは、その納得できないことに対する自分自身の判断基準を明示してあげる・・・そうすれば、相手も自分の選んだ判断基準を明示することになっていくのである・・・・

将来のことは神のみ知ることである・・・将来に対する方策が戦略であるということは、誰も絶対に正しいと確信できる選択は出来ないのである・・・また、現在のように、技術革新が早い時代においては、昔の変化の少なかった時と比べると、戦略自体のライフ・タイムは、当然短くても良いのである。大事なのは戦略を策定するときには、その選定のための判断基準が何があるかをすべて網羅して議論をして、選定のための判断基準を同時に確認することが大事になる・・・・

この反転基準の共有化がなされることは、判定基準がセンサーの役割となり、関係者は、判断基準と異なる事実が出てきたときには、現場を預かる人達が、その想定外の変化を、気軽にトップに報告できるようになる・・・・最高のセンサー精度は現場なのである・・・・

この種の議論の掘り下げのスキルはコーチングでもあり、ファシリテーティングでもあるが、これも、どれだけ多くの関係する知識を持っているかに依存するのである・・・・Kozyは営業部長として、5年後10年後の技術革新、つまり、テクノロジー・ロードマップを整理共有化して、自社の強みを生かした戦略的な商品開発をするプロジェクトリーダーになったことがあるが、最新の技術や近々の将来技術がもたらす変化の認識が最初であり、幾つかの異なる開発部門の部課長を集めて取り組んでみたが、ファシリテーティングには、苦労した・・・・つまり、技術者間では会話の内容が理解できている問題に自分だけだ理解が十分出来ていない・・・その中で本質的な議論を深めるのは、あるレベル異常の技術に対する理解力と論理的思考が絶対に必要なのである・・・

いろんなスキルがあるが、スキルはあくまで本質を掘り下げる方法論であり、本質を掘り下げるのに大事な事実の掌握能力が第一である・・・・人間の成長とは、より多くのことが見えるようになることだとKozyは捉えており、すべての大事な事実をその陰陽まで含めて見えて、システム的理解とそのメカニズムの理解があって、はじめて、スキルが生きるのである・・・・

マニュアル化により日本企業の弱体化したように、スキル重視は日本企業を弱体化しようとする攻撃を再度受けているのではないかと危惧するのである・・・・Kozyは、スキル教育はそのスキルに見合った課題処理能力を持った人達のみに有効ではないだろうか・・・つまり、関係領域で、自分で考えて処理する能力を持った人への更なる進化を齎すものであるべきで、マニュアル化の弊害を最低限に抑える配慮が必要ではないだろうか・・・何事にも陰陽があることを忘れないでほしい・・・

| | Comments (0)

December 05, 2007

今求められる経営・人材開発のベストミックス・・・

人件費、特に非正社員の低下と正反対に資源および農作物の輸入価格が高騰している・・・資源国および農業輸出国の関係労働者への利益のシフトが起きているともいいえる・・・世界的な視点では、人類の人口の爆発に伴い、需要と供給の関係上は労働者が増えているがゆえに、ミスマッチの問題等を無視すると、日本以外の多くの国においては労働の供給過多の問題より、日本以上に二極化が進んでいる・・・・・

現実は、日本の人件費は、大企業の正社員は、団塊世代を中心とする人件費が退職および給与減額(多くの企業は55-57歳ぐらいから半分近くに、役員以外は減額される)に伴い給与原資も増えてきているため、50代の中ごろまでの人は給与が増えている・・・しかし、非正社員の場合は増えるより減っているのではないだろうか・・・・

非正社員といっても大きく二分できると見ている・・・・一つは就職氷河期に正社員になりたくてもなれなかった人達が、否応なしに非正社員の道を歩んできた。そして、三十代になって深い専門性も持てずに、また、示すべき経歴も持てずに来てしまった人達・・・・・この人達にはセイフティーネットが必要・・・・

もう一つは、忍耐力のなさ=自分の感情を抑えられない人達が、これは自分のやりたい仕事ではないといってドロップアウトしてしまった・・・この自分の感情を抑えられない人には、対人コミュニケーションスキルのない人たちが一部含まれており、自分勝手な感情に縛られるがゆえに、忍耐力をもてない・・・・

本Blogでは何度か言っているが、対人コミュニケーションスキルの本質は、集団内においては、いかに普段から信頼されるに足る言動をしているかでしかないのである・・・・これが、相手の情動を決定するのである・・・すぐ切れる人は当然、信頼されないのである・・・

しかし、これらの世代の中での流行語になったとも言いえる自己実現には、この忍耐力は絶対条件なのである・・・・・

そして、世間の流行的なものに流されている人は、つまり、自分で考え自分で決断して自分で検証をして実行をしていった人たちの成功事例を追っかけるのは、その時代の変化の後、つまり、すでに過去のことについて、いまさら取り組んでも、そのときには供給過多となり、成功は期待できない・・・・このように流されてきた人たちは、当然の如く、直面する現実とのギャップはより大きいものになる・・・・

しかし、現実を直視して、困難に打ち勝てなくてもその中で少しでも進歩すれば、つまり、それでも希望を捨てずに=切れることなく頑張った人たちは残り、労働市場の需給のバランス調整がなされる・・・つまり正社員として残っている・・・・

この正社員も、上述したような人は少数派であり、切れる勇気もなく三無主義的に安定を求めて、本人としては自分を殺してしがみついている人達、つまり正社員という状況に甘えている人たちが多数派であろう・・・・

当局は告発者を発表しないのでデータはないが、内部告発者の多くは非正社員と正社員という状況に甘えている人達、特に、文句は言うが業績には貢献しない人達だと見ている・・・・頑張っている人達は、どんなに困難であろうと社内で改革に取り組むのである・・・・

非正社員の多くの仕事は、実質的に外人労働者との競合を強いられている部分もあるので、非正社員の人件費が低下する・・・しかし、先進国である日本の大企業においては、対正社員と対非正社員の金銭的な差と非金銭的な待遇の違いの差の両方が劣る状況が現在の姿であるが、これでは、社内に爆弾を抱えているようなものであり、極論すれば、非正社員の方を金銭的に優遇するということも考えるべきである・・・・

忘れてはいけないのは、労働者のコミットメントは、会社が同時に双方向にてコミットメントをすることによりはじめて成り立つのである・・・・心理学ではPOS=Perceived Organizational Supportと呼んでいる・・・また、日本的経営の本質である、年功序列制、終身雇用、および、家族主義は会社からのコミットメントとしての大きな文脈的な効果を持ってきた・・・

日本では、和洋折衷とか飴と鞭か言われているように、今流の言葉にするとベストミックスを考えるべきである・・・また、社員を分類しての対応が必要になってきている・・・つまり、人間の成長度合いに見合った対応が必要なのである・・・

念のためであるが、内部告発される会社はやはり経営者が一番悪いが、良い悪いは別にして、経営の根幹である人の成長を促すことにもっと留意すべきである・・・・単一の方法論ではいけない。人間の成長度合いによる方法論でなければならない。また、不必要な恐怖感を起動する社内的な文脈を洗い出し、その文脈への介入なしでは人の成長は促せないのである・・・・

少なくとも契約社員をもっと増やして、その下で正社員が働く、派遣社員とは異なるシステムはもっと考えるべきである・・・年俸では、契約社員、派遣社員、そして、正社員という順番もあってよいと思う・・・

日本における非正社員の給与の低さは、個人の因果応報および自業自得の部分もあり、仕方ない側面もあるが、いかにも低すぎると危惧している・・・・しっぺ返しがくる・・・・

いずれにせよ長い目で見れば、格差は世界的に収束していくであろう・・・現在は配分競争の過渡期だと捉えている・・・

| | Comments (0)

December 02, 2007

守ることと支えること・・・家族愛と夫婦愛への考察・・・

最近の社会情勢を見ていると、家族愛と夫婦愛について考えさせられる・・・・・・

小朝と泰葉との金屏風の前での離婚会見を見ていると、泰葉に、今でも凄く尊敬されている小朝は男として凄いことだと感じると同時に、小朝は落語の基本の基本である、男女の性差については解っていない・・・

女性の恋愛および結婚の判断基準には相手への尊敬の念が非常に大きい・・・これは女性が論理的に整理して理解したがる傾向が強いからである、つまり、より論理化により安心したい・・・一方、男性の結婚理由で尊敬が出来るからと言う人は非常に稀である・・・・

一方、前代未聞の収賄事件での守屋前次官の幸子夫人の逮捕の関連報道を見ていると、結婚時点では、夫への尊敬の念はあまりなかったように感じる・・・・・

いろんな夫婦見ていると、女は弱し、なれど母は強し・・・といわれるように、子供を持つと妻は、どんなに旦那さんを尊敬していた人も、家庭内での力関係は女性の方に移っていく・・・

また、守屋前次官は、非常に家庭を大事にすることを信条としているようである・・・・しかし、守屋氏は、家族にとっては最悪の事態へ導くことを助長してしまったと言ってよりであろう・・・・・

一般的には殆どの旦那さん連中は、妻には頭が上がらなくなるのが結婚の実態であるが故に、名言の一つとして、男は一生に二回、にやりとほくそえむ、一回は結婚のとき、もう一回は妻が死んだとき・・・・という趣旨の言葉もある・・・・

家族と夫婦との関係は、やはり子供が存在するか否かにより呼び方が変っている・・・つまり、子供のいない場合は、夫婦と呼び、子供がいる場合は家庭と呼ばれ、その構成員が夫婦を含む家族となる・・・・

そして、夫婦の関係においても、お互いがお父さんとかお母さん、または、パパとかママと、子供が出来ると呼ぶようになる・・・つまり、夫と妻の関係性が子供の父と母という言葉の繰り返しにより、関係性が強くなっていく・・・・

学生時代には一人でヒッチハイクをしていたが、一緒にヒッチハイクをすることが可能な友人がいたが、喧嘩別れをしたくないからお互いに別々に旅をしようと申し込んで了承を貰ったことがある・・・・

人間は集団の中でしか生きられないように脳も出来ているが、最小ユニットである二人の場合は、意見が同一の場合は良いが、常に同一になることは論理的にはありえない・・・つまり、どちらかが折れるわけであるが、その鬱積がたまっていき結果として喧嘩をしてしまう・・・・

三人になると、意見が二対一になり、この集団の維持のためには納得しやすい・・・また、四人の集団において2対2になったとしても、譲ったグループは、お互いに愚痴を言えるが故に、集団は維持しやすいのである・・・・

昔から、子は鎹(かすがい)というが、1対1の最小の集団の維持は論理的には一番難しいのである・・・しかし、1対1の最小のユニットが夫婦なのである・・・

個人的には、男性イデオロギーに無意識のうちに縛られていたが故に、妻を守ってあげたいという気持ちを強く持って結婚をした・・・・しかし、今掘り下げて当時の気持ちを整理すると、妻の最高の笑顔を何度も見たい、その笑顔が自分を癒すだけでなく自分を強くしてくれる、つまり、自分を成長させてくれると考えて結婚を決断したと確信できる・・・

守ることと支えることは、実は非常に大きな違いがある・・・・母親の本質は支えるよりも守ることになる・・・しかし、家族愛も夫婦愛も、その集団の構成員を守る意識が支える意識よりも強くなると、相手は守られたいと思うようになる・・・・依存症が強くなる・・・

つまり、守ることは危険=恐怖から遠ざけることであるが、この意味することは、相手の恐怖感への対峙能力を減少させることであり、もっと掘り下げると、現実から学ぶ機会を与えないことになる・・・・

一方、支えることは、現実という恐怖感に立ち向かう人を後ろから支えることを意味する・・・だから真の成長を促進する・・・

端的に言うと、守ることは負の相互作用を起こすが、支えることは正の相互作用を生むのである・・・この正の相互作用がシナジーを生むということなのである・・・・

小朝と泰葉の場合は、恐らく子供が出来ていれば、離婚には到らなかったであろう・・・そして、泰葉の強い尊敬の念は、支えるという言葉に繋がるが、強すぎる尊敬の念は、自己効力感を常に減少させていくことであり、子供が出来ていれば、自己効力感が充分強まったと思われる・・・・

守屋夫婦の場合は、奥さんの中に、守屋前次官の信条である家庭を大事にすることが、守ることへの軸足が移動しすぎていたが為に、妻自身が自分が偉い人間になったという錯覚を生んでしまった・・・・

また、女性の場合は母親の特性と女の特性の両方を持ち、けっして同じではない・・・守られて女が強く出すぎると、守屋夫人のような勘違い女を生み、母性が強くなりすぎると、ろくな子供に育たない・・・親は背中で子育てをするというのも大事な真実でもある・・・・

男性つまり夫は、会社においては、現在種々の見える化の方策が打たれているが故に、観察力の低さが補われ、現実直視の論理思考で仕事をこなせるが、仕事への時間をとられすぎることによる家庭における関係性が希薄になるだけでなく、女性の何分の一しかの観察力がないが故に、家庭内の問題が見えない・・・

しかし、世の旦那さんたちは、何故、頭が上がらなくなるのであろうか・・・

一つは負い目を感じている・・・家庭への時間が充分取れない、子供の面倒を実質任せている、有り余るような稼ぎは出来ていない、年齢的な衰えも覆い隠すことは出来ない・・・もっと参画したいと思っても出来ない、また、より良い加齢を進めることが出来ない・・・

しかし、女性は自分のネガティブな所を見ない術を知っているが故に、負い目をあまり感じない構造を持っている・・・

二つ目は、事実に基づいて建設的な話し合いをしようとしても、論理的に話そうと思えば思うほど、妻の情動は悪化していく・・・もっと観察力を挙げて情動を理解しようとしても、男性には能力の限界を感じて、夫婦間においては、女性の強い情動の前には理性が消えてしまう・・・しかし、この学習を通じて男性の頭の中でも情動が理性を凌駕することを知る・・・・男性はこのショック療法で成長が出来る・・・

もう一つは、心理学では社会的攻撃能力、すなわち相手の情動的に弱いところ、ある意味では否定できない弱みを見抜きそこを攻撃する能力と言って良いと思うが、これが女性は男性を凌駕する能力を持っている・・・観察力の差から生まれる能力でもあり、旦那達は、反論および攻撃するとそのしっぺ返しの方が怖いが故に、何も反論しなくなる・・・・

家族愛においてはたとえ自分の家族に非があっても、家族を非難されることは自分の長く所属している集団の構成員への攻撃となり、自分自身の心が傷むように人間の脳は出来ているが故に、耐えられない・・・これが家族愛の一つの側面である・・・

そして、もう一つの側面として支えてくれてきた人への双方向の支えをすることが、つまり、家族間の相互作用で家族という集団は維持されており、無意識のうちに役割分担が形成される・・・だから他人にはわからない役割分担があると感じるが故に、家族を守りたくなる・・・

夫婦のみの家族は1対1の問題があり、正に夫婦愛は築いていくものである・・・しかし、家族は3人以上の集団と成るが故に、確固とした役割分担ができた集団が出来やすいのである。また、子供から見ると最初に認識する集団であり、自分が、一番関係性が深い集団であり、当然そこには性格的な相性を超えた関係性が構築されるのである・・・・つまり、人間愛が生まれてくる・・・

皆さん、一度自分が愛と思っていることを、“守る”と“支える”という視点でどちらが大きいのか、または軸足はどちらにあるのか、直視してみたらいかがでしょうか・・・この使い分け方は簡単ではありません・・・しかし、常に意識することは非常に大事なことです・・・・・

| | Comments (0)

November 30, 2007

人生哲学の基本的な考え方・・・

昨年の2006年12月18日にホメオスタシス(ホメオステイシスとも呼ばれる)についてポストしたが、日本語では生体恒常性と呼ばれている・・・概念的に言うと多くの機能について作用と反作用の両方の機能がついており、常に、ある状態に戻ろうとする様に動いているということである・・・

脳内の情報伝達も同じ機能で動いている・・・また、自律神経も同様である・・・・ご興味ある人はは2006年12月18日の投稿をあわせ読んでいただきたい・・・・

これからは、Kozyの人生哲学になる、つまり、Kozyの強い仮設となるが、自分自身が経験的に検証して習得してきたものと最新の脳科学と心理学の知見を統合して考えると、次のように捉えるのが良いのではないかと思っている・・・・・

1.現状の脳科学では、この生体の恒常性がどのように相互作用してどこまでリンクしているのかは解明されていないが、間違った妄想に縛られずに現実から目を背けずに真摯に見つめている限りにおいては、人間は落ちる所まで落ち込むと、それらのマイナスで状態では生きていけないが故に、揺り戻しとして大きなプラスのエネルギーが起きてくる・・・・

だからKozyは自分自身の現実は神の啓示だと言い聞かして生きてきたが、この現実を正しく見るためには、普遍なものはない、システマテックに物事を捉える、つまり、分解されたプロセス間の相関関係、または、相互作用がどうなっているかまで堀下げて、仮説を設定して、真摯に検証をしていく思考習慣が、つまり、Kozyのいうところの第三の目の熟成が必要になる・・・・

この第三の目は、第一の目と第二の目の両方の熟成を通じて、真に熟成されるものであり、この為には経験が必要になる・・・・

2.高等動物ほど成人になるのに時間が要することが確認されている様に、他の動物や生物では、基本的に本能だけでの判断が出来るところで成長は終わるが、つまり、矛盾への対峙能力は持ち合わせていない、つまり、葛藤は起きないのである。しかし、人間の上述の三つの目は、25歳までの限られた知識と経験に縛られるが、現実社会では当然多くのものが、そのままでは有効機能しない・・・・むしろ第三の目は25歳ではまだ存在していないに等しい・・・・・

また、現実の人間社会においては技術革新がもたらす人々の価値観の変化が起きるために、たとえば、孔子の時代では、このような変化は非常に小さかったが、現代は非常に大きいのである・・・更に困ったことに、技術革新が人類の人口の爆発を起こしてしまっており、地球の生命体のバランスを破壊しつつあるのです・・・・・

3.人間が人間として存続するるためには、現代の世の中では死ぬまで成長を求められている・・・すなわち今までの人類以上の人間としての成長が求められている・・・つまり、より進化した高等動物としての成長が求められている・・・・・・我々はこの現代に生きているのである・・・・

4.Kozy自身の人生を振り返ってみると、自分の普段の言動が周りの人間に、自分の言動に基づくイメージを植え付けてしまっている。そして、このイメージは全て自分がまいた種であり、このイメージに自分自身が責任を持たなければならないと気づいたときから飛躍的に成長してきた・・・・つまり、この事は自分自身の視点である第一の目と相手・周りの視点である第二の目が自分自身の中で意識され区別されることから変化は始まった・・・

5.Kozyが非常に幸運であったのは両親の離婚に伴い、父親の勤めていた社宅を追い出されるようになり、母親がよりよい職を求めて、転職することに伴い、小学校を三校、中学校ですら三校も通うような状況に追い込まれたことにより、都会の下町、山の手、そして、田舎暮らしという、また、それぞれの文化が異なる地域での生活経験を中学校三年生までもつことが出来たからである・・・・

この事は、当然自分は、当時は意識はなかったが、異なる文化の理解の為に必要な考え方を習得する修行の場になったと捉えている・・・・

6.転校の度に、何が相手にどのようなイメージを与えるのか、また、そのイメージを与える自分自身の言動の改定にたいして、自分自身がどれだけ耐えうることが出来るのかの実験の場でもあった・・・自分の本当の強さと弱さを体感し習得する修行の場でもあった・・・

このことが第一の目と第二の目の成長を促し、その成長に伴い第三の目の成長を可能にしてきた・・・・両親の離婚自体は、お勧めできることではないが、正に両親の離婚がもたらした素晴らしい贈り物であった・・・・

これに拍車をかけたのが、母親が一流企業の独身寮に住み込みで働くようになり、そこに住む寮生の愚痴を嫌というほど聞かされた・・・これは、正に社会における現実の学習であり、成功者の話には語られない真実が多く、愚痴には嘘が無いのである・・・・

7.以上からいえるのは第一の目は、自分はこうだと決め付けずに、自分自身がどれだけの許容力を持っているかを、再度検証してみること。そして、その現実を真摯に受け止めること。つまり、正しい現実としての悪さ加減の認識が大事である・・・ここから自己変革は始まる・・・・

また、第二の目は、人はそれぞれの異なる経験により感性が形成され、また、おかれている状態にも縛られるが故に、単純に因果関係を整理できるわけではないことを肝に銘じて、誰にはどういう状態のときは何が如何認識されるかを、時間をかけて学んでいくことが大事になる。

この二つの目の発達に伴い第三の目は熟成されていく・・・そして、第三の目は自分の心酔する内なる神に成長していく・・・・この自分の内なる神に恥じない行動をすることを大事にすること・・・

ドラッカーが言っている言葉で、“Wisdom is not to do things right but to do right things”・・・この叡智が第三の目であるとKozyは捉えている・・・・

8.人間の恒常性とは、最小エネルギーで最大の効果を求めることに通じるものであり、この本質は怠惰性でしかない。また、25歳の仮の成人になるということは、瞬時の中長期の展望をも踏まえて判断する回路が完成することでもあるが、これでは人間は葛藤・ストレスの連続の中にしかいられないことを意味している・・・・

だからその都度のあるべき姿を、または、あるべき正しい行動をする為には、第三の目を熟成させることが必要になる・・・これが、バランス感覚であり、中庸である・・・・

だから、焦らず諦めずに問い続けて仮設を設定して検証をし続けるということが、大事になる・・・決して現実から目を背けてはいけない・・・この修行を続けるために、心のエネルギーが必要であり、その為に楽しむことも必要になる・・・

この切り替えのタイミングと上手い切り替えが、求めらる生きていくためのスキルとなる。しかし、このスキルも経験を通じて、また、自分の内なるからだからの声を聞く能力を磨かないと向上は出来ない・・・・

最後に、現実の直視とは、掘り下げると恐怖感への対峙能力でもあり、鈍感さと細心さの両立が必要であり、これが胆力の源泉でもある・・・・

| | Comments (0)

November 29, 2007

与えられたものと獲得・習得したものを峻別しよう・・・・

人間は与えられているものに対しては、それが当たり前のものと思う・・・つまり、長い年月を経ると当たり前のものとして、ある意味での習慣化の弊害として何にも感じなくなってしまう・・・・

一方、自分で苦労して習得したものには愛着および執着する・・・つまり、脳内でも習得したものはより強く他に神経ネットワークにつながれている・・・・また、苦労して獲得・習得したものは、その経験を通じて、よく理解が出来ているし、正しい有効活用法を知っている・・・

それ故に、一度は、または、定期的に与えられているものは何なのか、また、それを本当に有効活用しているのか・・・・を考えることが大事なのである・・・・・

往々にして、人間は与えられているものに対して、正しい理解としての権利と義務の関係を理解せずにいいとこ取りをしてしまう・・・あって当たり前のことは決してあることは、けっして当たり前だとはいえないのである・・・・・

一つの代表的なことわざで言うと、“何時までもあると思うな親と金”・・・お金は分かりやすいと思うが、親に対しては、“親孝行したいと思えば親は無し”といわれるように、多くの人間は失くさないと、有難さは解らない・・・

さて、今あって当たり前のもので、本Blogでは民主主義および自由主義の話は何度もしてきたが、日本では市民革命というステップを踏まずに与えられたものである・・・この二つとも、自己の自立が前提となっている大人社会に基づくものであり、大人でない限り享受が認められないものである・・・・・

民主主義は決して理想のものではない・・・しかし、これ以上のものを人類は未だに持っていないのである・・・自由主義はみんなが自由に振舞うと社会コミュニティーは崩壊してしまうと危惧されるが・・・マキャベリは、自由の大事さを人間は知っているが故に、自由な社会の維持に必要なルールは、人間は守るのである・・・と述べている・・・・

しかし、日本の現状を観ていると、マキャベリの意見に同意できない・・・これが与えられた民主主義と自由主義の弊害なのである・・・権利と義務、物事の表裏一体のことでもあり、自由という権利はその為の義務が果たされて与えられるもの・・・・

昔、ロンドンに住んでいるときに、あるルールを守らなくて違反した人が、それこそ日本人から見ると、そこまで血相を変えて怒らなくてもと感じるほどに一般大衆の人の中で罵倒されているのを眼の辺りにした・・・・・

正に、キリスト教社会は罰の社会だと痛感したことがある・・・それ故にお許しくださいという言葉が出て来る・・・しかし、日本の社会は、歴史的には恥の社会である・・・または、恥の社会であった・・・・

最近、もう一つの与えられたものとしてのジェンダー・フリーに関して、以前も発言したが、これは男性イデオロギーと女性イデオロギー、つまり、男性はこうあるべき、女性はこうあるべきととうこと、そして、社会的な男性の役割と社会的な女性の役割に対して、それらは拘束すべきでない・・・・・ということである・・・・

しかし、脳科学の分野では、明らかに性差は認められており、この性差を踏まえた上で、個体差もあり、全てを押し付けるべきでないということなのである・・・・

残念ながら、ジェンダー・フリーにおいて、男性も女性も青年期における自己の性の受容が遅れており、アイデンティティーの確立が大幅に遅れてきている・・・また、1990年ごろの大学生から、それまでは有効に機能していた男性ジェンダーの調査票上では、それまで存在したかっての男性はいなくなった・・・・

脳科学上では、男性は弱いが故に強くなるように“男らしく”、女性は強いが故に“女性らしく”という、養育のための人類の知恵であった今では捉えられている部分が多い。・・・

女性の生きる強さから、拝金主義的な風潮が生まれてきた側面を感じざるを得ない・・・昔は、色男、金と力はなかりけり・・・といわれたが、今は、イケメンは金があり、力もあるべき・・・と変化してきている・・・・女性にもてたいが故に、男性は拝金主義に走っている人が増えてきている・・・・

自己成長においてはありのままの自分の受容が一番大事であるが、個体差はあるが、真の人間の強さはありのままの自分の悪さ弱さ加減を認識するその強さが、人間の強さであることを忘れないで欲しい・・・・

ジェンダーフリーで恩恵を受けたのは、おかまの社会的な認知だけであり、これも女性の支持で成り立っているが、レズは未だに社会的に認知されない・・・女性の支持が得られていないからだと捉えている・・・・・

仕事においては自分の敵は自分であるが、男性は弱い男性ねたみが一番の敵であり、女性においては、女性ジェンダーのいいとこ取りをする、つまり、楽したい女性が敵になっている・・・・いずれ揺り戻しは来ると思うが、早くあるべき姿に戻って欲しい・・・

最後に、20世紀には、共産主義および社会主義の嵐が起きたが、人間の構造的弱さの現実を無視したイデオロギーでしかなかったことが証明された・・・つまり、現実を直視しない理想主義は、腐敗と崩壊しか導かないことが証明された世紀でもある・・・・・

Kozyは資本主義が勝ったとも思っていない。しかし、自由主義は絶対に守る出来であり、自由競争も守るべきであると捉えているが、これには前提があり、秩序の保たれた社会の維持が必要であり、この秩序とは反社会性の行動は許されない・・・という社会的規範のもとの社会ということである・・・・

皆さんも与えられたものと獲得・習得したものを峻別して考える習慣をつけて欲しい・・・そして、与えられたものの権利と義務の視点での理解を深めて欲しい・・・・どれだけ獲得・習得したものがありますか???・・・・・・

| | Comments (0)

November 27, 2007

アルツハイマー病から性差の考察・・・

先日友人の娘さんが尋ねてきた。彼女は都内の有名大学病院で看護婦をしている・・・何故かアルツハイマー病には明らかに性差があり、女性が男性の約1.5倍の発病率であるとの話を伺った。確かにウェブを検索しても同じことが書かれていた・・・・

更にウェブで調べていたら、学歴による発病率は、男性では変化が無いのに、女性の場合は低学歴者は高学歴者に比べて、約4.5倍になっている・・・

そして、結論として・・・「教育歴は臨床的な痴呆を示す閾値に達する時期を遅らせる生物的能力の1つのマーカーである」という意見(教育して、神経細胞のネットワークを増やした分だけ、脳の細胞が減っても症状が出るまでに多少時間的な猶予がもらえるという考え方)が最も妥当なようです。・・・・と結んでいた・・・・

Kozyはこの話を聞いて思い出すのは、バイリンガルの人は老化のするスピードが遅いと言うことである・・・・つまり、バイリンガルとは言葉に対して通常の人の二倍前後の神経ネットワークを持つと同時に、言葉の裏にある文化の違いも整理されていることにより、通常の人に比べて、大幅に広い神経ネットワークをこの点では持っていると解釈できる・・・

一方、最近の若い女性のアルツハイマー病の発症が時々話題になるが・・・男性においては教育暦による差が無いことを考えると、単純に普段から頭を使えばアルツハイマー病を発病しにくくなるとは言いがたいのである・・・・

ある年齢を超えて、つまり閉経に伴い女性ホルモンが急激に低下することにより、脳内の情報伝達物質の減少が発生して、神経ネットワークが衰退していくことも考えられるが、Kozyは、一つの仮説として、25歳までにどれだけ多くの広く深い経験をしてきたのかにも依存するのではないかと捉えている・・・・

もっと掘り下げて説明すると、たとえば低学歴の女性の場合は、中学校での社会への反発により高校にも行かない、または、高校での反発により、または、女性特有のいじめ経験より、集団の愚かさの脅威を感じて、大学にも進学しない・・・・現代社会においては経済的な問題より、自分を受け入れてくれる小さな仲間集団への傾倒が、自分の世界を小さくしていく・・・・

この裏には、過度な理想主義に陥ることにより現実への拒絶反応が存在するのではないだろうか・・・性差としては、女性は男性に比べて観察能力が大幅に大きいが故に、良い事も悪いこともよく見えてしまう・・・

また、女性の思春期は、女性ホルモンが充分に製造されていない・・・女性ホルモンは精神安定剤としても使用されるものであり、男性以上に大きな不安を感じ取ってしまう・・・

これらの経験より多くの女性は、嫌なもの、怖いもの、つまり、心のエネルギーを減退させるものには目を向けない、ある意味では知恵を習得している人が多い・・・それが故に失恋での立ち直りが女性は非常に早く男性は尾を引いてしまう・・・・

また、個人的な若いときの経験から言うと、25歳を過ぎた女性は自分の価値観を変えようとしない頑固さがあり、非常に口説きにくい・・・・

男性は観察力が低いが故に、痛い思いをするまで気がつかない特徴があるが、女性は、その兆候を早く察知して回避する術を持っている・・・

一見すると、女性の方が知恵を持っているとも言い得るが、この知恵の判断基準と中長期への展望への理解力は、25歳ごろに脳内の最後のメイン回路として脳内に形成されるものであり、その判断基準と展開性への理解は現実の社会においてはきわめて不十分なものである・・・・・

ところが男性は、鈍感が故に痛い思いをするまでの経験を積むことが出来るが故に、25歳までに培われた判断基準と展開性への理解の、ケースバイケースでの深耕の機会が多い。それ故、脳内の神経ネットワークの拡大拡充がなされていく・・・・

女性においては25歳までにどれだけ広く深い経験をするかということも大事であるが、むしろ、机上の学問を通じて物事の見方および捉え方を広めることが出来得るのではないだろうか・・・教育効果についても男女の性差があるきがしてならない・・・・・

また、多くの男性は理解していないと危惧するが、女性は論理的なメカニズムについて強い探究心を持っており、感情だけでなく理論的に納得したがる・・・このような論理化は心の安らぎを深める・・・

欧米の失恋の歌の詩を見ていても、男性の方が理論的整理が出来ていない。しかし、女性は見事にポイントをついている歌詞が多い・・・Kozyが若いときに、失恋を重ねるたびに男性は優しくなり、女性は強くなる・・・との整理をしたことがある・・・・・

心理学と脳科学の勉強をしてみると、鈍感な男性には人の情動のメカニズムの多様性の理解、女性には論理的な理解へのベストな方法が恋愛なのかもしれない・・・そして、男女とも本当のありのままの自分を認める機会にもなり、ありのままで居られる素晴らしさを学ぶ試練の場が恋愛なのではないだろうか・・・・

このように考えると、実学の習得の多さがアルツハイマー病の早期の発病予防には一番効果があるのかもしれない・・・・実学の説明はこの前の記事を参照して欲しい・・・

| | Comments (0)

November 26, 2007

二項同一、実学、より見えること・・・

最近Kozyの頭に浮かぶキーワードとして、二項同一、実学、そして、より見えることという三つがある・・・・これは人間が成長する為には、その為に何が必要でどのように変化していくかを考える必ず浮かんでくる言葉なのである・・・・・・

今までに何度か発信している言葉であるが、再度、異なる表現にて説明をしたい・・・・

1.二項同一・・・これはもっと端的に言うと、全体的に矛盾する二つが一体化する、または、共存をするということである。人間は二者択一という決断をすると、それまでの不安やもやもやが無くなりすっきりする。しかし、いったん選択または決断してしまうと、そうでないものが見えなくなる・・・つまり、自分の都合の良いものは見えるが、都合の悪いものには目を向けなくなるのである・・・・・tつまり、成長の阻害要因になる・・・・

二年ほど前に、歴史上栄華を極めた文明の衰退を研究した本が出版されたが、著者は、文明の衰退は、その文明の根幹にある価値観の変更をすることが出来なかったが故に、衰退したと結論付けている・・・全くKozyも同感である・・・・・

つまり、時代の変化への適用が大事であるが、文明の栄華に導いた価値観の変更は非常に難しいということである・・・・これは個人の成長にも同じことが言い得るのである・・・・

最近の例で言うと、小沢民主党代表の大連立構想は、残念ながら国民の多数のひんしゅくをかったようであるが、Kozyは、きわめて前向きに評価している・・・・

小沢さんの主義主張でもある第一の目の視点では、二大政党制の達成は今もなんら変っていないと捉えている。しかし、現実を直視すると、つまり、周り及び社会の考え方である第二の目を見開いて現実を真摯に観察するに、現状の民主党の力量、国会の空転が長引くと来年度の予算編成さえ組むことが出来ない、また、こんな状況を続けている政党に政権能力があるのか等を真摯に見て、今の現状でのあるべき姿は何なのかを考える第三の目を屈指して、自民・公明のような選挙協力はしない大連立が現実的且つ実践的であり、国民の生活およびもっと大きな視点としての国益を考えるに、より実益のある、しかし、過渡期の方法論として、大連立を考えたと、Kozyは捉えている・・・・・・

現実の世界では、一っとびにThe Bestである二大政党にはいけるわけではなく、The Betterな方法論で階段を上ることを考えた・・・・つまり、二者択一でなく二項同一を模索した・・・・この姿勢が、政治家に一番求められるものだと捉えている・・・言い換えると、現実に即してThe Betterを求める姿勢が人間成長には必要なのである・・・

理想はそれに近づく事が大事なのである・・・・人間成長は一日で出来るものではない・・・

2.実学とは、それまでに習得した知識や価値観を、現実に基づき、いったん破棄する勇気と、その現実に基づき再学習をして習得されたものである・・・念の為であるが、この実学として習得したものも、異なる現実にまた遭遇したときには破棄して再学習をすることでもある・・・・

胆力とは、一つの側面としては、いったん破棄する勇気のことでもある・・・・また、いったん破棄することは、自分から孤独の世界に入るという、心理学上では独居(どっきょ)ということであり、独居を厭わない勇気でもある・・・

3.“より見えること”とは、上述したに一および二項で述べた恐怖感に打ち勝つことであり、打ち勝つことにより、より多くの現実が見えてくるのである・・・・より多くが見えるが故にあるべき方向に進む能力が増大する・・・この好循環が成長を促進していく・・・・

恐怖に打ち勝つといっても、常に打ち勝てるものではない・・・・大事なのは自分の持つ恐怖感を不安状態にとどめるのではなく、掘り下げて理解をして、その恐怖感から目を背けないことなのである・・・・

また、恐怖感の対象がハッキリしたならば、それらの恐怖感の相互作用を、つまり、どんな関係性を持っているかを理解して、その中で何が自分にとって一番の恐怖感なのか、つまり、恐怖感の優先順位を整理していくことにより、孔子の言うところの不惑の域に達するのである・・・・

つまり、一番の恐怖感に陥らないためには、そこに導かれるほかの恐怖感には打ち勝たなくてはいけないということの整理が必要になる・・・・・しかし、この整理のためには、広く深い経験、また、自分が恐怖感を感じていると思うことを再度経験してみて見るしか序列の整理および関係性の理解は出来ない・・・・

25歳までの限られた環境で習得してしまった恐怖感は、また、両親から引き継いだ恐怖感は、今の現実の社会でも適用されるとは限らないのである・・・・・

| | Comments (0)

November 21, 2007

本当に反省能力が在りますか・・・???

人はよく反省が大事だと言う・・・Kozyも同感ではあるが、反省とは如何いうことなのか???・・・そのことを本当に判っている人がどれだけいるのであろうか・・・・・当たり前の様に使う言葉であるが、Kozyは人類が言葉を習得したときに、つまり、進化の中での選択をしたときに当然何かを棄てる、または、弱体化を招いていると考えている・・・・・

反省とは、日本文化、中国文化を表している言葉だと、欧米人と英語で話しているときに痛感した・・・・試しに和英辞書で反省を引いてみると、・・・・・・・・・・

反省=内省、自省と記載され、英語では次のような言葉が出てくる・・・・・

Reflection; 熟考;内省、反省

Regret; 後悔、悔い

Self-examination; 自省

Review; 回顧

Think about oneself; 反省する、自省する

つまり、英語で話すときに反省はその都度適正な単語を選択する必要がある・・・・・・

また、上記の単語を見ると解りやすいと思うが、反省とは、後悔がスタートとして発生して、自分自身を振り返って真摯に自分自身の何が問題なのかを考えること。そして、正しく自分と現実を受容する作業の総体を意味している・・・・

しかし、反省という言葉をここまでの簡単なレベルであるが掘り下げて理解をしている人がどれだけいるのかといつも危惧するのである・・・これが言葉を使うことの弊害なのである・・・・・

更に、掘り下げると、反省とは現実を正しく認識できることが前提であり、また、自分自身を有りの儘に受容できることが前提の言葉であり、25歳ぐらいで、自分の中でそれまでの経験に基づいて強く規定された言葉の意味づけに縛れて何も疑わなくなる人間の構造的な問題より、そしてまた、現実を見る場合も、25歳までの未熟な経験による判断基準に縛られた脳にコントロールされている構造的な問題を持っている人間には、残念ながら9割以上の人が反省能力を持っていないと捉えざる得ない・・・・・・・・

この事実を認識することが、反省のスタートだとKozyは捉えている・・・・・特に、内省とか自省という意味での自分を省みるとは、心理学用語に置き換えると自己受容であるが、自分が如何に限定された経験と知識による判断基準に縛られているか、また、人間の25ぐらいでの判断基準の総体でもある価値観は、親の価値観を80%以上受け継いでいるのである・・・・・・

しかし、親の価値観の多くは親が生きてきた社会的な文脈の中での経験により醸成されたもの、また、もっと言うと、その親の親の価値観を80%以上受け継いできたものまで含まれるのである・・・・・

そして、残りの2割弱の自己の経験・知識により醸成された本人独自の価値観を掘り下げると、小学校までは恐らく地域の全ての層の家庭で育った同級生と一緒にいたが、中学受験や高校受験を通じてある共通の環境下で育った人同士に限定され、大学に入ると、国立化私立により経済環境が同類の人に限定され、さらに、専攻学科を決めるときの価値観の同類の人に限定される中での集団の中で自分の価値観が醸成されるのである・・・・

当然、地域文化の違い、更に世代ごとに生きてきた釈迦的な文脈は異なるのである・・・・・・・

就職をするときには更に限定されていく・・・・・このように捉えると、今の日本の社会における25歳の人達、そして、殆どの人間は非常に限定された集団の中で価値観を醸成していることになる・・・・つまり、本質的には全ての人間が自分自身がかたわであるという認識を持つことが大事であり、論理的には何時まで経っても人間はかたわであるということがいえるのである・・・・この認識が多様性の受容と謙虚さの本質でもあるのです・・・・・

この様な価値観を持つと、自分が理解出来ない人間に出会うと、この場合は多くの場合人から嫌われている人になりますが、何故にこの人はこの様な言動に走る判断基準を持つようになったのかに非常に興味を抱く様になります・・・・これが人間の本質への深い理解へ導いてくれる・・・

Kozyはこの様な人に出会うと好意を表す笑顔をもって色々話しかけます・・・・・この様な人はだれもKozyのようなアプローチをしてくれないので、色んなことを話してくれるのです・・・人間は集団の中で生きたいのです・・・・・・・

若いときは一匹狼に憧れに似た感情を持ちますが、一匹狼は群れを追われた、嫌いな言葉ではありますがまさに負け組みなのです・・・勝ち組からは学ぶことは非常に少ない。しかし、負け組みから学ぶことは非常に多いのです・・・・・・

念のために補足すると、自立の基本である自分で考え自分で決断して、自分で行動をする・・・この点では人間は皆孤独な狼ということでもあります・・・・一匹狼は、英語ではLone Wolf, つまり一匹と言う語感と寂しいと語感を持っています・・・・・つまり、人間も基本はLoneでもあるのです・・・

そして、自分の価値観の変更、つまり、判断基準の変更は、確かに苦痛を伴うでしょう・・・・ポイントは、その結果としてより多くのものが見えてくるか否かが、正しい変更かの大事な判定基準になる・・・・Kozyは成長することはより多くのものが見えてくることだと捉えています・・・・より見えるからこそ成功への確率が上がる、幸福への確率が上がる・・・・・・

経営も同じであるが故に、トヨタはここまでの成長を得ることが出来た・・・・自己経営に頑張ってください・・・・

最後に、Kozyは人間が言葉を得るときに失ったのは五感の感度だと捉えています・・・しかし、脳にインプットされる全ての情報は、五感を通じてインプットされるのです・・・・

一方、人間が何故に、動物として一番進化したかを考えるに、言葉の取得に伴い言葉に縛れるが、この事は、自分の価値観と現実の世界に接するときに、矛盾、不条理に直面して言葉を再定義する試練=修行が課されているからだと捉えています・・・・だから人間は何時までも懲りない人が多いのです・・・・・

反省は上述したように非常に難しい。しかし、何時までも本当に反省が出来ないとストレスの肥大化とストレスの連続になる・・・・この点ではこれが生きること・・・・

皆さん反省能力に自信がもてますか????・・・・・・!!!!・・・・

| | Comments (0)

November 15, 2007

「 幸せのハードルを下げる」を感動だけで終わらせない為に・・・

お笑いコンビ「麒麟」の田村裕氏が書いた『ホームレス中学生』という本の中で「 幸せのハードルを下げる」ことを学んだ人は百万人はくだらないのではないだろうか・・・・・実は、Kozyはこの本は読んでいないが、本Blogの中の第一の人生の中で同じ趣旨のことを言っている思う・・・・

Kozyの言葉では、この事は二つの言葉で書かれている・・・・・

一つは、人間は落ちる所まで落ちると、幸福とは、それまでと比較してよくなるときに感じる感情であるが故に、落ちるところまで落ちると、それ以上はおちようがないので、少しの改善に伴う感激の連続になる・・・・それまでの自分が如何に恵まれ傲慢であったかを感じることが出来るようになる・・・・

傲慢であるが故に、何時までも幸福感を感じることができない・・・・しかし、落ちるところまで落ちる事は、少しの好転だけで非常に大きな幸福感を感じることが出来る・・・・つまり、一生で幸福感を一番多く感じることが出来る一番幸せな人生を送ることが出来るという幸福感を感じることが出来る・・・・・・・

つまり、あって当たり前と思っていたことが、実はそうではないことを知ることになる・・・・

もう一つは、家なき子の名言でもある“同情するなら金をくれ”という言葉があるが、Kozy自身も小さい時に、同情とはその人の自己満足である。本当に同情してくれるなら金をくれという感慨に陥ったことがある・・・・しかし、多くの知り合いの人が、小学生のKozyに出来ることを依頼してそのお礼としてお金をくれるのであった・・・・・かっての自分自身を振り返ったときに、皆が金が余るほど裕福ではないので、また関係性が強いわけでもないKozyに、必要な出費の中でてKozyが遣れることをわざわざまわしてくれる・・・・それは、小学生のKozyの仕事は大人と較べれば時間がかかり、また、精度は落ちるはずなのに回してくれる・・・・・・

また、母子家庭のKozyにとっては親にお金の負担をかけることは避けたい中で、高校・大学における特別奨学金は当時は半分は返済不要で残りの半分は無利子での卒業後の20年返済となり、これがなければ学校には行けなかった・・・・・そして、これが国民の税金で賄われていることを知り、何千万分の一の負担を周りの人がしてくれているメカニズムを理解するに、何時か納税をして自分も貢献したいと思うようになった・・・・

この事は、更に昇華していき、社会に支えられている自分が先ず必要なのは、つまり、幸福な人生として送る為には働くことが出来て納税することが出来ることが、社会の一員として出来れば十分幸せであると捉えるようになる・・・・つまり、この義務を果たさない限り幸せになる資格はもてない・・・・そして、日本国憲法の中に国民の三大義務として、勤労、納税、そして、教育と明記されていることを知りこの含意に納得するのである・・・・・

つまり、落ちる所まで落ちる事は、人間の弱さ、自分の弱さと同時に、人間の共同体の中で生きていくことが支えあいの愛によって支えられ生きている。そして、この優しさを知ることになる・・・・・以前、平和の代償として一連の発信を通じて人生を振り返ってみたが、やはり、“泥中の蓮”とは、泥水の中でしか清らかな純白の蓮は咲かないということだと痛感した・・・・

しかし、この様に達観しては、平和な社会は崩壊するしかないことを意味する・・・・それ故に、平和な社会の維持と発展をするためにはどうすれば良いのか・・・・ここで最新の脳科学と心理学の知識からの洞察が必要になる・・・・正直言って、残念ではあるが、この書籍読んで感動をして大きな気付きを得たとしても、決して幸せのハードルを低くすることは殆どの人が出来ないと確信する・・・・

それは人間の場合は経験を通じて脳に刻み込まれる特性を持っており、所詮は同じ経験をしないと身につかないのである・・・・言葉による理解は所詮理性の構成物でしかなく、理性だけでは人は変われないのである・・・・・・・・

では、どうすれば良いのか、答えは経験と同じ効果のある習慣化の力を利用するしかない・・・・つまり、落ちる所まで落ちるとは、それまでにある現実に対して見えていなかったことが見えるようになることを意味している・・・・・

この答えのヒントが関西で古くから言われている“金儲けの三かき”の深い含意であると捉えている・・・・この表層的な意味は、三かき、つまり、汗かき、恥かき、義理かき、つまり、一生懸命取り組み、恥も気にせず、義理も気にせず生きていけば金儲けが出来るということであるが、Kozyは、何が本当に汗をかくことか、何が本当に恥なのか、何が守るべき義理なのかを、社会的な通念や周りの意見に邪魔されずに真摯に掘り下げて再考すること捉えている・・・・・・

つまり、この事は、その都度、あるべきすがたは何であるかを自分自身で自問自答する習慣が人を成長させ、結果としてお金がついてくることだと理解している・・・・・・このこと自体が、本BlogでKozyが何度も発信している生きる目的でもある第三の目の熟成そのものなのである・・・・

第三の目の熟成は、次の三つの思考の習慣化がもたらすのである・・・・①普遍なものはない。②システマティックな事実に基づく理解を深める。③見つけた仮説を諸先輩または関与者との対話を通じて検証する(弁証法思考)の三つである。・・・・①と②には物事を陰陽・表裏一体で捉えることが必要である・・・・・

この第三の目の熟成には、自分の視点である第一の目および周り社会の視点である第二の目の熟成が必要になる・・・・・つまり、現在多くの人が「 幸せのハードルを下げる」という言葉に感動をしても、感動はその掘りさげをしないと時間と伴に色あせていくのである・・・・

人生には近道はない・・・なんとなれば経験を通じて脳の改善が必要だからである・・・・しかし、人生には余分な遠回りを避ける道はあるのである・・・・・焦らず諦めずに第三の目の熟成を意識して、つまり習慣化して、幸せの階段を登っていって欲しい・・・・・

| | Comments (0)

November 13, 2007

ある悲しい事件・・・・

Kozyはマンションに住んでおり、現在管理組合の理事長をしている。ごみの回収日は、住んでいる地域としては、月の第二月曜日は古紙・古布の指定回収日である。また、火・木・土曜日が家庭ごみ・乾電池・スプレー缶・燃えないごみの回収日であり、缶・びん・ペットボトル・小さな金属類は水曜日、プラスティック製容器梱包が金曜日に指定されている・・・・

今までに何人かの居住者が異なる指定日に勝手に他のごみを出す人がいて問題になっていたが、昨日の第二月曜日には、正直言って信じられない問題が起きた・・・・・

あたかも業務用のような洗剤容器が、それも中身が殆ど入ったままの容器で指定外の日にマンションのごみ収容室に投棄されていた。そして、この容器が相当重たいために、引きずりながら運ばれてきたのは理解できるが、その時に洗剤液がこぼれながら運ばれており、最後の方では約10メーターほどのながさではだくだくと床にこぼれながら引かれた後が残っており、Kozyも朝にごみを棄てに行ったときに滑りそうになってしまった・・・・

また、ごみの収容室のなかでは、この洗剤液が流れこぼれておりべとべとになっていた・・・・管理人さんが朝に出勤してきて、ホースで洗剤液を流して掃除をしてくれたが、石のタイルの床は定期的にワックスをかけているが故に、洗剤液の原液が表面のワックスを洗浄したが故に、見事に跡が残って次回のワックスがけの時までは跡は消えない状態になっている・・・・

この非常識な居住者の犯した間違いは次のように整理される・・・・

1.ごみの回収指定日を守ってない。
2.ごみを棄てるときに中身の洗剤を自室で廃棄せずに投棄した。
3.洗浄液のキャップを閉めずに投棄した。
4.こぼした洗浄液を自分で清掃しなかった・・・・しかし、自室の玄関の前だけは清掃していた・・・・

更に言うと、これは間違いと言うよりは無知の部類になるが、マンションの三分の二の同意が得られれば、法律上、マンションを追放されることを知らない・・・・・

この居住者を個人的に知っているが、世帯主はここまで非常識であるとは信じられない人であり、そこの二十代のお子さんの犯行を推測される・・・・・・・

今回は、幸い滑って転んだとの事故の報告はないが、居住者には50歳以上の人も多いが故に、転んだ場合は容易に骨折をすることが想定され、この点ではほっとしている・・・・・・

Kozyはマンションは住む住人によりマンションの価値が決定されると考えており、今回の一回だけで緊急理事会または総会を開いて追い出すのは大人気ないので“注意”・・・つまり、実質は第一回の警告文を個人あてではなく掲示板に提示することとした・・・・・・

以上がことの顛末であるが、他のマンションの状況をヒアリングをしても、若い人たちが増えたマンションは大なり小なり同じ問題を抱えていることが判った・・・・・また、指定日と異なる日にごみを出す人は、それは管理人がその日まで保管しろ、また、分別を守らない人もいるが、それは管理人が高い管理費を払っているので、管理人が分別すればよいとまでの発言があることも報告されている・・・・

この様な非常識な行動の背景に何がおきているのかを考えるに、人間は集団の中で支えあって、つまり、分担し合ってコミュニティーを維持している。また、直接及び間接的な支え合いが崩壊すると社会が崩壊することを理解できていない。また、自分が今回のような非常識な行動しているような駄目な人間であるにも拘らず、相手および社会に理想を求める幼稚性にも起因していると捉えている・・・・・

拝金主義に毒されているともいえるが、若い人と個別に話していると、自分の視点である第一の目だけで行動しているが、その行動が何をもたらすかを説明してあげると、つまり、相手・社会の視点である第二の目が覚醒され、自分の幼稚さを知り反省をする人が殆どである・・・・若い人の多くの悩みはこの若さゆえの傲慢性から来ている・・・・・・

以前、“「照一隅者是国士」・・・経営哲学=人生哲学・・・・”(2007年6月8日)および““21世紀のお金の本質”とは、・・・・What is changing(6)・・・ ”(2007年4月1日)をポストしているが、この二つを読んで、若者が理想を求めるのであれば、たとえお金を貰っている職業であっても、また、お金を貰っていない行為であっても、つまり、こんな金額でこれだけのことをして頂いている、また、無償にもかかわらず分担された行為を全うしている人たちに支えられて現在がることを理解して、感謝の気持ちを持ち自分の分担を確り遂行して欲しい・・・・

つまり、大人と自負する人は折りに振れ、これらのメカニズムへの理解の足りない人の第二の目の覚醒を促すこと、また、若い人たちは第二の目は熟成していないのは当然であるが故に、このことを受け入れて、第二の目の熟成を心がけて欲しい・・・・・

最近つくづく感じるが、たとえ給与を貰っている人たちの行為であっても、その行為があなた自身の、また、コミュニティーの維持・貢献に寄与している行為を受けた場合に、“有難うございます”とか“ご苦労様です”という言葉を発する人が減りすぎている・・・・

あるところで観察をしていたが、この様な言葉が自然に出てくる人は、全員が素晴らしい顔を持っている・・・・女性の方がこの点では、観察していると、割合が多いが、男性の若い人は、ゼロに近いのが残念である・・・・・

| | Comments (0)

November 12, 2007

Kozyのお勧め折りたたみ自転車・・・Mobiky Genius!!!

今年の10月から、やっと日本でも“Mobiky Genius Folding Bike ”が購入できるようになったことを受けて、Kozyの友人からも商品についての質問が入るようになった・・・・なんとなれば、Kozyは既に四ヶ月前から、本家の、つまり、日本への使用の為の改造前のものを乗り回しているからです・・・・

ついては、KozyのMobikyは、現在販売されているものと少し仕様が違うが、四ヶ月に及ぶ経験から、少し意見を述べておきたい・・・・・

実は、Kozyは180cmあり、それ故に、日本製の折りたたみ自転車は、重心の位置が自分に合わないので、怖くて買えないので、ウェブで欧米の、欧米人様の折りたたみバイクを探していた。・・・・・つまり、このMobilyは背の高い人にも安心して乗れる・・・・実際に一回の最長距離は25kmまで、殆どが10kmぐらいでを乗り、当然家の近くも何回も乗り、重心位置による問題は一度もなかった・・・・・・

距離メーターはつけていないので正確ではないが、少なくとも一ヶ月に100km以上乗り回して、累計500kmは乗り回してきて、先日、初めてタイヤの空気圧が下がったと感じて米国タイプの空気入れを使用して空気を入れた・・・・参考まで、何時からかは知らないがグローバル化を受けて、現在売られている空気入れは多くが米国式にアダプターをつけて日本タイプに適応して売っているが多いので、購入の場合は心配ないといいえる・・・・・

このMobikyは、試乗感とか、走っているビデオ等は、YouTubeで“Mobiky”だけで検索してもいっぱい出てくるので一度覘いてみると良いと思います・・・・また、メーカーからの組み立てやメンテナンスのビデオがYouTubeに提供されているので、残念ながら日本語版はないが、役に立つのでお勧めしたい・・・・・

さて、Kozyがなに故にMobikyを選んだのかは、渋谷までは電車に自転をに持ち込み、渋谷からは自転車での移動により顧客を回ることをすることにより、自転車で走る、自由さ、開放感、電車の乗り降りからの時間的開放、そして、不精な自分への運動をさせる為に考えた次第です・・・

日本では、世界の先進国と異なり、エコロジーに大貢献する自転車での移動を促進する立場になっていない。それ故に多くの国の電車やバスにあるべきはずの自転車を置く空間が設けられていないので、日本では自転車はフルカバーをしていないものは基本的に電車内には持ち込むことは出来ない・・・・・

つまり、欧米では本自転車の最大のメリットである、折りたたんでもそのまま持ち込んで、転がしていくことが出来ない・・・・それ故に、購入者は自分自身で付属のカバーを改造するか、独自に、特性を活かして転がせるように作くる必要がある・・・・Kozyは、改造をして持ち込んでいる・・・どうして詳細を聞きたい人は、直接メールを下さい・・・・・

また、本自転車に最初に乗ったときに少し戸惑いを覚えた。それはダイヤが非常に小さいので、直進性の慣性力がないので確りハンドルを固定しながら走る必要がある・・・・これは、特に片手運転のときには注意が必要であるが、慣れれば問題はない・・・・・一方、この特性は通常の自転車では前に荷物を載せることが、その荷物が重い場合はハンドルをとられ易いが、このタイヤの小ささよりたとえハンドルを取られても少ししか進まないので、修正が非常に簡単になる・・・・・

つまり、本自転車は、構造的に後ろに荷物を積むのでなく、前に荷物を積むことを前提に設計されていると理解している・・・それ故に、前に荷物を掛ける金具がついていると理解している・・・・・しかし、流石に固定できない場合で重たいものを前に積むと、ハンドリングは困難を要する・・・・・Kozyは小さくて軽いものの時は金具に引っ掛けるが、重たいもの、つまり、スーパー等での買い物などの場合は、色々試してみたが、Backpackを取り付けることをお勧めします・・・・

つまり、Backpackの長さにも依るが、ハンドルに肩掛けの部分を引っ掛けたりして、Backpackの体に巻きつけて固定する機能を利用して揺れない様にすると、Backpackが正にエコバッグになるのでお勧めである・・・Kozyは実際にはハンドルのブレーキ・レバーに引っ掛けているが、両サイドから引っ張られる型になるので、ブレーキをかけるのには全く支障はない・・・・・・

Backpackを背中に背負って乗るのも可能であるが、買い物等には向かないので、大き目のエコバッグとして前につけるのをお勧めします・・・

また、本自転車の欠点はアルミ合金であるにも拘らず、つまり、非常に硬性が高いにも拘らず、前後輪からのショックを和らげる為のサスペンションがついていないことである・・・・日本の場合は、他の先進国と異なり、自転車は歩行者道路を走ることを強いられる場合が多いが、そこには、目の不自由な方への、ガイドとしての何種類かのタイルがあるが、この衝撃ですら感じてしまうのである・・・・

この対策として、Mobily Japanでは売っていないが、サドル・サスペンションを別途購入しないと、正直言って疲れるのである・・・また、すこしスピードが落ちるかもしれないが、前輪の衝撃は避けようがないので空気圧を少し下げておくことをお勧めします・・・・日本製で適用できるのがいくつかあるので、最初から購入することをお勧めします・・・

また、実は一週間ほど前に久ぶりにこけて今も手にあざが残っているが、タイヤが従来の自転車のタイヤに較べて非常に小さいので、道路と歩道の落差が5cmほどあると斜めに横切ろうとすると流されてしまい倒れてしまう・・・・判っていても一瞬の判断は昔の記憶によりなされるので、注意が必要である。また、10cmをこれる落差は、壁にぶつかるように止まってしまうの注意すべきである・・・・

あるBlogでは、坂道がきついとあるが、三段ギアがオリジナルと同じものであれば、一段のギアの切り替えが、ちょうど6段ギアの二つ飛ばしの感覚で変化する感じであり、相当の坂道でも問題は個人的には感じたことがない・・・・・・

本自転車はT字型のハンドルであるが故に選択したのであるが、ハンドルを両手とも下から握ってペダルをこぐと、腹筋にも力が入り体全体でこぐエネルギーを伝えることが出来るので、坂道にはお勧めである・・・・試してみてください。ただし、この乗り方をする場合は、ブレーキ・レバーを45度ぐらいに設定して上から握ろうと下から握ろうともブレーキがかけれるようにしておく事・・・・

また、スタンドは正直言って、短すぎるので平らで風がないところ、つまり、室内以外では使えないと捉えた方が良い。しかし、折りたたんだ状態では少し安定するので、スタンドを使用するときには折りたたんで使用するのがあ勧めである・・・本当に三秒と折りたたむのには時間はかからないので、いつもKozyは折りたたんでで立てるようにしている・・・・この事は荷物かごとかを後ろにつけることは諦めるべきだと言うことでもある・・・・・

また、こうして折りたたんで前後の車輪が引っ付いた状態で、二つの車輪にチェーン型の鍵を通してかけるのがお勧めである・・・・Kozyは、実際は長めのチェーン型の鍵を何かに引っ掛けて持っていかれないようにして常に置くようにしている・・・・これが一番お勧めである・・・・

全体としては、個人の目的には合致しており、十分満足している・・・・・・・・

2007年11月25日追記:

四点言い忘れたことがあるので、追記します。

1.折りたたみ自転車で重量を軽くする為に、細いタイヤを指定しているのがあるが、これは路上での小さな石ころ等でハンドルを取られる危険がある為、Kozyのような団塊の世代での反射神経の衰退した人間には危険である。それ故に太いタイヤのものを探してきた・・・これに合致したのがMobikyであった。

2.Mobilyのカラーの部分は、性格には不明だが恐らくホーローの陶器のようなもので鮮やかで光沢のある色を出していると推測している。実は、KozyのMobikyは、何度か自転車が倒れたときか、または、転倒したときに、既に二箇所ほど欠ける様にして着色部分がはがれて取れてしまっている・・・・くれぐれも、倒れないようによく確認して駐輪をすべき。また、当然転倒しないようにしてください・・・・・

3.専門店経由での購入は恐らくアドバイスはもらえると思うが、折りたたみ自転車の構造的問題として、Mobikyの場合は、特に日本仕様の場合は、折りたたむときには左のブレーキを強くかけながらたたむこと。・・・そうしないと折りたたんだときに、後輪にブレーキがかかってしまうことが多い。また、折りたたんだ後に伸ばして乗る前には、前輪にブレーキがかかりやすいので、右のブレーキを強くかけたままでハンドルを左に切れるところまできって乗ること。・・・そうしないと左折するときに勝手に急ブレーキがかかることがある。

4.雨のときにも何度か乗ったが、恐らく追い越していった車からのはねた水を何度か受けたことにより、その中に含まれていた小さな砂だと思うが、これが折りたたもうとしたときにロックできなくなったことが二度あった。しかし、二回とも家の風呂場でシャワーをかけて砂落しをすることで、治った。シャワーで洗うと予想以上に砂が落ちてくる。時々洗浄うすことをお勧めします。

| | Comments (0)

November 06, 2007

本音と建前への考察・・・・・

本音と建前は個人にも組織にもあります。特に最近の企業内告発をみるとどうもこの本音と建前の力関係が変化してきていると感じています・・・

しかし、個人においては未だに変化のしていないと感じています・・・・・

本音と建前は、謂わばダブルスタンダードと言えます・・・矛盾する二つの価値観という意味では、心理学用語では、アンビバレンス(Ambivalence)ということになります・・・・・また、本音は内側のもの、建前は外側のものということが出来ます・・・・このバランス感覚を磨くことは脳の活性化にも寄与します・・・・

英語では、本音=Real Intention, 建前はPrincipleとかTheory、つまり、原理原則とか理屈として和英にはでてきますが、ネイティブで日本に長く滞在している人と話していると、White Lieが一番適していると言われました・・・これは、相手の感情を傷つけない為の小さな嘘という意味であり、個人における建前はこれに近い気がします・・・・・

一方、組織のおける本音とは、企業文化であり、規範であり、企業風土と捉えるべきでしょう・・・・・これは人間が集団の中でしか生きれない動物であることに起因しており、集団の維持のためのルールともいえるでしょう・・・・・

組織における建前とは、社外を取り囲む社会的規範ということが出来るでしょう・・・・・・最近の変化はこの社会的な基本に従う、社会的市民としての基本に従う人が企業内に増えてきた・・・・・

この変化には種々のことが考えられますが、一言でいうと会社との関係性が希薄になってきている・・・・一番大きな変化は、たとえ大企業とはいえ、急激な変化の時代で何時までも存続するわけではないという認識の変化です・・・・そして、多くの大企業ですら、自ら終身雇用のそれまでの規範を破り、多くの社員のリストラをしてきた・・・・・

昔は、内部告発は、むしろ抗社会的な行動と認識されていた・・・・つまり、会社は一生面倒を見てくれると言う社会的な認識が存在した・・・・・

企業内への忠誠心またはコミットメントは、昔は暗黙の了解という形ではあったが、終身雇用制にて、双方向に維持・機能してきた・・・・・・

ある意味では当たり前のことであるが、双方向で始めて、忠誠心またはコミットメントは維持醸成されるのである・・・・・しかし、この当たり前のことに気がついていない経営者は多い・・・・

また、本Blogで何度も述べているが、人類史上にて21世紀は個人の力が一番強くなってきている・・・・極論すれば、一個人の一つのBlogからの発信から、企業に大きな打撃を与えることが可能になってきた・・・・また、技術革新により多様種少量生産が安く出来る時代になり、顧客の多様性に対することが重要になってきた・・・・・・

企業と個人の力関係にも変化を見せ始めている・・・・そして双方向のコミットメントが成されない企業においては内部告発者が増え続ける・・・これは企業の大小の問題ではないのである・・・・・・

正社員からの内部告発が一番多いが、パートタイマーの場合は、双方向のコミットメントは、企業サイドからないがしろにされているゆえ、パートタイマーはもっと平気で内部告発をする・・・・・パートタイマーは、この点では論理的には正社員よりも多くの給与を払うことにより、企業からパートタイマーへのコミットメントを示す必要すら想定できる・・・・

つまり、安いからパートタイマーを使うある種の搾取的な捉え方は、しっぺ返しを受ける時代になるのではないだろうか・・・・パートタイマーとは、高い給与を払って、企業のフットワークを軽くする為に雇用する時代に変わりつつあるとも言いえるのである・・・・

一方、個人における本音と建前という点では、正に建前=White Lieが、日本においては全盛期を迎えている気がしてならない・・・・しかし、white Lieという相手も傷つけない為の嘘のコミュニケーションは、一時しのぎとしては良いが、その相手が関係性が深く長い付き合いであれば、嘘によるコミュニケーションが一体何をもたらすのでしょうか・・・・

知識に関しては日本においても、“聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥”という概念はかなり共有化されているが、相手を傷つけない嘘とは、言い換えれば、現実を知らしめないことである・・・また、現実は現実が故に一生続くことなのである・・・・現実を知らないことは一生恥をかき続けることでもあり、成長の機会を与えないことでもあるのです・・・・これでは日本は良くならないと確信するのは自分ひとりだけなのでしょうか・・・・・

急激な変化をもたらしている現在の日本社会は、閉鎖された昔の村社会とは異なり、開放された上に大きな変化の渦中にいる・・・この点では、一時の事実はすぐ事実ではなくなる可能性は否定しないが、世の中の変化をいち早く察知するには、現実の変化に耳を向けることが一番大事になってきている社会に日本人はいるのではないでしょうか・・・・・

Kozyはたとえ相手が傷つこうとも、それが現実であれば、また、相手が関係性の深い長い付き合いの可能性があるのであれば、“現実を知ることは一時の痛み、知らないことは一生の不覚”と言いたい。また、“小さな嘘は一時の回避策、正直は王道”とも言いたい・・・・・

また、White Lieには、傷つけたくない=嫌われたくないという自己欺瞞が多くの場合含まれており、後で事実を知った人は、何であのときに言ってくれなかったのだろうと思うと同時に、信頼できない人と認知するのである・・・・・・・これらを含めて、Kozyは再度“小さな親切、大きな迷惑”という側面をもっと理解してほしいと希求せざるを得ない・・・・・

| | Comments (0)

November 02, 2007

精神疾患・・・正常と異常の境界線・・・・

最近の裁判を見ていると、何でもかんでも精神病に結びつける傾向があるが、これは概念的に言うと陰陽の人間の陰であるダークサイドにだけ焦点を当てすぎていると捉えざるを得ない・・・・・21世紀からは心理学の世界では、陽のブライトサイドである、ポジティブ心理学が勃興しており、人間を捉えるのに、陰陽の両方から見て判断すべきであると捉えている・・・・・

人間は誰でも陰の部分を持っており、そこだけをハイライトしたら人間は全員が精神病疾患となる・・・・正常と異常の境界線は本来簡単に引けるものではないのである・・・・

本質的な問題としては、Kozyは、社会的な繋がりが希薄になってきているという認識が大事であり、その希薄度合いを鑑みて判断をすべきでありと考えている・・・・・・つまり、多くの犯罪の本質的な原因は、人間教育の学校教育と家庭内教育およびコミュニティー教育の中のコミュニティーとの希薄性があまりにも大きくなりすぎたことに起因するのではないだろうか・・・・

叱ってくれる人が減りすぎたが故に、世の中を馬鹿にする人が増えている・・・・・・・・

人間は誰でも、例えば躁鬱症であり、それが強いか否かだけであり、その異常さが、理性を維持しているかといえば、誰もが理性を維持している・・・・・このことを裁判では判断能力があったか否かを問うているが、この判断は非常に難しい・・・・・つまり、演技が可能なのである・・・・

冒頭で述べたように、陰陽の両面からの判断が必要であり、昔の不良仲間を思い出しても、ごく一部の人間は確かに一般常識から言えば、判断基準が間違っているが故に、異常行動をとる・・・つまり、反社会性な行動をとるが、本来、罪とは反社会性行動を意味するものであり、罪として罰するべきだと捉えている・・・・

多様な価値観の容認と反社会的行動は、念の為であるが、別のものである・・・・

反社会性志向の人間を、向社会性志向に切り替えるのは至難の業であり、それが故に、拘置という状態に追い込み反省を促す・・・それ故、刑期というのは、一般公約数的な標準値であり、本来は反省が十分成されない人は=反社会性志向の人は、一般社会に放出してはいけないというのが筋ではないだろうか・・・・・

しかし、現存する方法論では、向社会性志向に切り替わったかいなかの判断は難しい・・・・それこそ多数の人間の判断に任せるという出所決定を陪審制にするという方が制度があがるのではないだろうか・・・・・

また、まだ誰が取り組んでいるかは不明であるが、脳科学と心理学の融合を行えば、個人的には科学的な検知が出来るはずだと捉えている・・・・・

また、精神病自体も、薬で一時的な精神異常に追い込むことも可能であり、変則的な抹殺の方法ともいえる隔離にもなりえる・・・・

人間だから悩み苦しむのは、理にかなったことであり、昨今の社会を見るに、健常者まで、色んな精神病の名前を聞き、自分のそうだと思い不必要に患者を増やしている・・・・・

遺伝的な、または、物理的なの疾患から来る精神病は別にして、精神病という言葉すら要らないのではないかと強く感じてきている・・・・

| | Comments (0)

October 30, 2007

“結婚恐怖症”の恐怖の本質とは???・・・

最近、“結婚恐怖症”という言葉を耳にするようになった・・・・感覚的には、今の独身者にはこの傾向が以前より強く、さもありなん・・・と頷ける・・・・男女とも三十代で独身者は男性は三人に一人ほど、女性は四人に一人ほどである・・・・この差は、この統計の背景を調べないと正確にはなんともいえないが、恐らく有意な性差がある気がする・・・・・

この数字は、記憶が定かでない・・・四十代でこの数字かもしれない、念の為・・・

女性の方が社会的な文脈に敏感であり、より観察力が強いので、結婚への社会的圧力に順応しやすいとも考えられる・・・ある意味では割りきりが出来るが、男性はどうしてもこの勇気が少ないと心理学・脳科学の知見から言うと考えられる・・・・・

とはいえ、いったい結婚に伴う何に恐怖感を感じているのかを考察してみたい・・・・・

ある番組を見ていると、結婚を否定する人はむしろ少ないが、男性は必要性を感じられない・・・・女性は理想の人にめぐり合えない・・・という意見が多かった・・・・しかし、自分の両親は早く孫の顔を見たい気持ちを理解しており、可能なら結婚したい・・・・・

また、男性の意見では、40を過ぎた今、両親の介護のことを心配し始めており、やはり結婚しなくてはと考えている・・・・・こんな理由で結婚したいと少しでも思っているのであれば、女性は本心を見抜く力が男性より圧倒的に強いので、こんな自己中の人とは結婚をしたがらない・・・・

以上の主要意見をもとに考察を試みるが、何ゆえに恐怖感に焦点を与えるかは、種々のフィールドにおいて結婚の長所とか素晴らしさは述べられていても、結婚生活という現実が与える恐怖感とは何なのかは、あまり触れられていない。・・・・・・・

また、人間は理性でなく情動に支配される脳構造の解明が成されており、また、報酬よりも恐怖の方が情動を支配することも確認されていることより、少なくとも人間の行動変容においては、何が本当の恐怖感なのか、そして、その恐怖感の強度の優先順位がどうなっているかを考察する必要がある・・・・・

しかし、人間の恐怖感の優先順位は、25歳までの限られ、且つ、守られた環境での経験と机上の論理としての知識により作られたものであり、また、8割以上は、自分自身が経験もしていない両親の経験からきた価値観を引き継いでいるのである・・・・・つまり、殆どの人の恐怖感は、幻想の世界で作られたものであり、多くが妄想である・・・・つまり、正しくない恐怖感に縛られている・・・・・・・

以上より、想定される恐怖感は何か、そして、それは正しいのか、また、その恐怖感に縛られることの意味することを掘り下げて考察してみたい・・・・・・

先ずは、男性について考察をすると、“必要性を感じない”とは、追い込まれてはいないという側面と、自分自身にとってライフ・パートナーの重要性を理解していないということに二分されると捉えたい・・・・・

“追い込まれていない”・・・・この意味するところは、未だに親離れが出来ていないことが主因ではないだろうか・・・特に、親と同居している人にとっては、炊事、洗濯、掃除等は、親に世話になっている。また、部屋代も食事代も何も払っていない・・・・給与取得者でありながら居候でるいう様な自分勝手な側面が想定される・・・・・・・

これは確かに都合がよく、金銭的にも時間的にも自由度が高くなる・・・・・この自由を維持したい・・・自由をなくすことが恐ろしい・・・・では、自由とは社会のコミュニティーの一員としての義務を履行して初めて確保される権利である・・・・・社会での最小コミュニティーは家族であり、その家族が結婚をして子孫を残したいという種族保存の本能を持っており、それに答えられない人間には自由は供与されない・・・・・

念の為であるが、社会への貢献の為に自分の人生を捧げるという義務の履行は認められる・・・・これらの捉えかたは極論ではあるが、論理的にはこのようにも捉えられるのである・・・・・

また、権利だけを行使するような人間は、人間としては自己中であり、それを多様な価値観として容認することは甘やかしでしかないのではないだろうか・・・・・・もっと大きなコミュニティーとしての国家から言うと人口の減は国力を落とすものであり、権利義務の関係から言うと、国籍剥奪国外追放でもしかたない側面すらある・・・・・また、企業社会においても、この様な自己中の人間は組織には貢献できないのであり、現状では考えられないが、解雇の理由になってもおかしくない・・・・・・

また、現在は高齢の独身者が増えてきているが、それが故に、社会からの疎外感は昔に較べ減ってきているが、この様な人に共通しているのが、自己中の特色である、相手の視点への配慮および理解が欠落している・・・・・この行き着く先として、最近の事件報道が示すように、高齢独身者が自分の親を殺害するということに繋がる・・・・または、老齢の親が高齢の子どもを殺害することに繋がる・・・・

高齢の独身者は、お前達(親達)が俺をだめにしたというが、特に母親の特性は短視眼的に守ることが第一であるが故に、このことに普通の子ども達は青年期に親離れをするのであり、これを短視眼的な都合のよさ、つまり、楽さに流された本人の責任でしかない・・・・・・

先人達は、色々な言い方をしていますが、Kozy苑では“楽という川に流されて行き着く先は、逃げ場のない後悔と苦渋に満ちた涙の湖”・・・・・と記載されています・・・・・

女性の“理想の人がいない”とは、男性におけるライフ・パートナーの重要性の理解の欠落とも同根あり、人間の弱さの理解、つまり、自分を含めて人間の弱さ、醜さ等の構造的な欠点の受容が出来ていないことを意味する・・・・・この第一が自分自身の有りの儘の悪さの受容になる・・・・・

昔は、女性の場合は25歳までに結婚すべきとの社会的な経験則がありました・・・・これは、正に現代の脳科学が解明したように、25歳でいっ

たん自身の価値観が決定するが故に、女性の場合は、現実という恐怖感への対峙を避ける人が多い為、考え方が画一化してしまう・・・つまり、新たな経験という恐怖体験を避けるので女性の価値観の変更を促すのが非常に難しいくなってしまうということである・・・・

しかし、女性の場合は観察力が男性を大幅に上回っているために、そして、その観察力を通じて、社会的な文脈を読む能力が男性より構造的に高いために、周りと上手く付き合う、つまり、嫌われたいくないという恐怖感が強いが為に、たとえ出来ちゃった婚であろう、何かを契機にして結婚を男性よりも決意しやすい・・・・・・つまり、妥協能力が強いとも言いえる・・・・・女性の道徳観はこれと同様にして形成されていく・・・・・

男女とも、男性と女性の脳科学にて確認されている性差に対する理解が足りない・・・・ジェンダーフリーの動きの活発化を契機として、晩婚化が更に促進されたとも捉えられる・・・・一部の男女のイデオロギーは、確かに間違っているが、性差は当然ある。しかし、同時に個人差も大きいのも事実である・・・・・・

それ故に、男女とも、人間の弱さの理解だけでなく、男性は、男性としての特徴としての陰陽をよく理解し、女性も同様に女性としての特徴としての陰陽をよく理解すれば、男女の生み出すシナジーがより理解しやすくなる・・・・・

前回のBlogで“マーケッティング方策=自己成長方策”で書いたところの、Marketing Management・・・つまり、自分のおかれている状況を理解する能力が女性の持つ特性でもある。また、Marketing Strategy・・・・・ある意味での外部の中で何が重要で、むしろ何が敵なのかを汲み取り戦闘意欲を増すのが男性の持つ特性であるとも言いえる・・・・・

だから、自己成長には男女のシナジーが重要になるのである・・・・・また、より多くのシナジーを育てていく必要もある・・・

よく熟年の大女優が、男性は自己中で何時まで経っても夢見る子どもよ・・・と言い捨てているが、見事に看破している・・・・・また、多くの男性は女性を怖いと見るが、これも足元の現実による判断が基になっているが故に、自分を守る強さを持っている。男性は身近な現実が見え難いが故に、妬みや僻みは多くても妄想によるものが多いが故に、真の恐怖感を女性に与えることは少ない・・・・

しかし、結婚恐怖症の本質的な恐怖感とは、本当の自分を認めて生きていく苦悩であると捉えている・・・・・残念ながら、これが出来て初めて人間は成長の門をくぐることが出来るのであり、これを避けるとは自己成長の拒否であるだけでなく、既に地獄への門をくぐっていることになるのではないだろうか・・・・・・・・

| | Comments (0)

October 23, 2007

日本における“自由”とは・・・・

日本における自由について最近色々考えさせられることが多い・・・・・マキャベリは、次のことを言っている・・・・

“長期にわたって支配下におかれ、その下で生きるのに慣れてしまった人民は、何かの偶然で転がり込んできた自由を手にしても、活用する術を知らないのだ”・・・・

また、次のことも言っている・・・“なぜ、人々の心に自由に生きることへの強い愛着が生まれてくるのか、この問いに対する答えは簡単である。歴史上自由を持つ国だけが反映をしている、・・・この理由は簡単であり、自由である国家を維持する為には、個人の利益より、共同体の利益を優先するようになったからである”・・・・・・・

Kozyは、長い専制国家であった、日本が第二次世界大戦後、自由を日本国民に与えた・・・・つまり、自由の意味とその大事さを体感することもなく、与えられた・・・・・この自由とは多数決による決定に民主主義と個人を大事にする個人主義の、ある意味で相反する側面をバランスよく融合していくことであったのだと理解をしている・・・・・

共同体の利益を最優先するのであれば、全体主義・ファシズムに陥る危険性があり、それが故に、個人主義とのバランスを保つ智恵・・・これが自由の規定ではないだろうか・・・・・マキャベリの上段の言葉のとおり、日本人は自由を活用する術を知らずに、戦後既に60年以上たっている・・・・・

バランスを保つとは、絶対普遍な平衡点があるのではなく、常にいき過ぎる側面を構造的に持っており、同時に揺り戻しが常に働くことを意味しており、その都度のあるべき姿への正しい洞察力が絶対必要になる・・・・・また、行き過ぎたものに対する警鐘を鳴らすことは、その時点では全くの少数派であるが故に、勇気の要る行動なのである・・・・・

しかし、これらの能力を持つことは、実質的に自己実現者のみが対応が可能ともいいえるのである・・・・・現実の日本をかんがみるに、自己実現者が少なすぎる・・・・・・

一方、歴史的に見ると、日本人の特性の一つに矛盾する二つを同体化して生きてきた民族の智恵があるとKozyは評価している・・・既に戦後60年以上たった今、間違った行き過ぎは訂正すべきであり、その為に、日本人全体がもっと成長する必要があると捉えている・・・・・

その為には、多数派の意見や日本の規範に縛られずに、あるべき姿は何なのかを自分で考え、自分で決断して、それを関係者との意見交換による検証をして、自分で納得できた行動をとる・・・・この自己納得感が説得力の大きな原動力になる・・・・・これが自由を謳歌する為の義務である・・・・・義務が果たされないと自由は与えられない・・・・

話が唐突に飛ぶが、北朝鮮に拉致されて帰国した人たちは、日本人の中で自由の意味と大事さを一番体得していると確信する。その中の蓮池薫さんが、お子さん達が無事に日本に帰国できたときに、“日本は自由に発言できる素晴らしい国家である”という趣旨のことを話したとのことを何かの報道で見たが、今の日本人には、特に自由が与えられた後の世代には、恐らくこの深い意味は理解できなかったのであろう・・・・・

バランスを保つ力とは、同時に、レジリエンス(自己復旧能力)にも通じるところがあり、苦いが最高の良薬はやはり若いときの逆境の経験でもある・・・・先日ある有名塾で講師をしている人と話していたら、自分の子どもに対して過干渉で、昔はこんなことはなかったと嘆いていた・・・・

子どもは干渉し過ぎると、自分で考えることも出来なくなり、守りすぎれば、駄目な子になってしまう・・・このバランス感覚がない・・・・・・時代の変化を読む能力も無い両親が、つまり、その価値観を持たない親に育てられた子ども達は、この大事な価値観および変化を掌握する術ももたないであろう・・・・・・・

ましてや、給食費を払わない親は、給食制度の崩壊まで行かないと反省は出来ないのであろう・・・・・人間は結果という事実により判断する傾向が強いので、関係者が集まり、一ヶ月でもよいから給食をやめてみては如何だろうか・・・・・・・・崩壊してからでは費用的には再生はより困難になる・・・・・

子育てのノイローゼが多く散見されるが、これは、大げさではあるが個人主義の原点である個人差があり、その個人差を、つまり、多様性を認める哲学が理解されていない・・・・また、大家族制の崩壊にも関係している・・・・特に、マニュアル世代といわれた人達には、自分で考えることを放棄してマニュアルに頼った生き方をしてきたが故に、マニュアル通りにいかないと大きな不安を招くのである・・・・・・

また、時代のICT技術革新による大きな産業革命の真っ只中であるが故に、ICT技術の新興企業はほとんどが20代の社員により運営されている会社があるが、この人たちは世代間の価値観の違いを理解する機会が極端に少なくなり、多様性の習得という点では、大きなハンディキャップを背負うことになるであろう・・・・・今の中高年以上に偏見の塊の社員製造会社ともいいえるのである・・・・・

世代間の価値観のずれは、育った社会的な文脈の違いであり、人間として感じるものにはまったく差はないが、判断基準の優先順位が異なるだけでしかないのである・・・・・・こんな当たり前のことすら、解っていない・・・・・・・社会的な文脈の違いとその影響の違いが理解できれば、世代間ギャップは存在しないのである・・・・だが、確かにこの理解は簡単ではない・・・・

| | Comments (0)

October 13, 2007

あなたは目標という言葉を如何理解していますか???・・・・・

目標および目的と言う言葉を我々日本人は、躊躇なく使っているが、和英辞典で見ると、非常に多くの単語があるので今更ながら驚いた・・・・

英語を勉強したい人は、日本語から検索するときには、更に、これらの全ての目標・目的に関する英語の単語を英英辞典で引かないと、正しい使い分けが出来るわけがない・・・・・つまり、活き活きとした英語を喋り理解する為には、英英辞典を引く習慣は避けられない・・・・・

一方、日本人は夢という言葉が好きであるが、欧米人と話しているときに、夢という言葉は殆ど聞いたことはない・・・・それに類する言葉では、思い当たるのは、ゴールという言葉である・・・しかし、和英には、このゴールは目標・目的の言葉として記載されている・・・・

オーストラリアから、ハーフの妹の息子、つまり、甥が日本に交換ホーム・ステイとして来日しており、会う前に、目標として最も適した英語の確認をしようとしたのであるが、今更ながら、異なる文化の言葉を勉強することは、ある意味で強制的に物事の本質を学ぶことに繋がると再度思い起こされた・・・・・

和英には次の言葉が目標・目的で記載されていたが、皆さんにとっての目標・目的とは、次の英単語のどれが一番しっくり来ますか???・・・

各単語のしたの説明は、英英辞典の要約です・・・・・

Purpose

Aimという意味と同じで、ものごとが達成されると想定されるもの。そして、第二義としては、Planと同じで強い意向(遣りたい気持ち)のある計画。第三義は、生きるために理由。第四義は、現実的に達成可能な目標・目的。全体としてのニュアンスは、本来は生きるための理由に通じるものであるが、現実的で達成可能な計画を描いて達成するもの・・・・

Aim

あなたが、計画、行動 または、活動を通じて、達成したいと希望するもの。念のために言うと、Purposeには希望するという単語はなく意向とか計画という言葉しかない。第二義的には、何かを目的を持って遣り始めた時に成し遂げる能力。つまり、全体のニュアンスとしては、個人が強く希望して希望を維持して成し遂げるもの・・・・

Goal

あなたが将来に努力して達成したいと希望するもの・・・・・

Object

プラン、行動 または、活動の目的・目標・・・・・Objectiveよりくだけた言葉・・・・

Objective

達成する為に頑張っている目標。第二義的には、軍隊でよく使われるが、到達すべく頑張っている対象の場所。・・・・達成できるとの含意がある・・・・・

End(s)

Goalと同じ意味で、あなたが達成したいと希望する最終結果の状態・・・・・究極的な目標・・・・・・欧米の諺で、“The end justifies the means”, 直訳すると目的は手段を正当化する・・・・

Point(s)

本来は一つしかない事実、アイデア、議論の趣旨。そして、時間および展開のなかでの特定的な瞬間、時間、ステージとしての目標から転じて、何かを行う目標・目的に使われる。

View

本来は自分が考える、または、信じる視点・・・・つまり、自分の判断基準を確り持っている視点を通じての目標・目的。

Target

結果として求められるレベルの目標・・・・目的としてのニュアンスはない・・・・


さて、どれが皆さんの普段使っている言葉としての目標・目的という言葉にしっくりしますか????・・・・・

ここで大事なのは、ここまで考えた上での言葉の使い方をすることです・・・・・そして、その時に大事なポイントは